呪われた娘
1人で城に戻ったキークを待っていたのは、二通りの驚きだった。
一つは、暫くは恋人との甘い旅行から戻らないだろうと思っていた、長兄リューンの驚き。もう一つはリリスを連れ出したばかりか、逃げられてしまったことに対する、父王リファイスの驚きである。
リファイスの驚きは、キークに対する怒りから来るものではなく、逃げ出したリリスに対する恐怖から来るものであるらしかった。賢王として、常に威厳の衣を纏っている父王が顔色を失っている。
その事実にいささか意地の悪い興味を覚えて、リューンは尋ねた。
「リリスというあの少女、一体何者なのですか。呪われた少女だとのことですが……」
暫しの沈黙の後、耐えきれなくなったかのようにリファイスは重い口を開いた。
「奴は、《神狩り》、つまり、《神》を殺すために作られた一族の末裔だ」
「《神》? 殺す?」
リューンが訝る。頷いて、リファイスが語ったのは、次のような話だった。
ことの始まりは、エポルエの建国にまで遡る。初代国王の治世以前、このエポルエの地は、《神》と呼ばれる種族の統治下にあった。
《神》は極めて高い知性と身体能力を有し、強力な魔力を自在に使いこなす存在であった。そして、《神》は皆、凄絶な美貌を誇り、その美貌に相応しい残忍さを兼ね備えていた。彼らにとっては普通の人間など、畜生も同然であった。人間達はいいように弄ばれ、殺されていった。
そんな《神》を駆逐しようとして、人間達は人為的に、《神》に劣らぬ力を持つ同族を作ろうとした。それが、リデルの一族である。
人間達は、最初は優れた能力を持つ人間同士を交配させて、より優れた人間を作ることに専念した。そして、そうしてできた優性種に相応しい人間が、自然に生まれた者の中にいなくなると、人間達は彼らに同族婚を強いたのだ。
そればかりでなく、《神》が人間達を「駆除」するためにばらまく毒物に耐性を持たせるべく、子供の頃から少しずつ、毒を服用させた。その結果、いつしか彼ら一族の体液は、ほんの数滴で普通の人間を殺せるまでの毒性を帯びるようになった。
同族婚は、一族に超人的な能力を持つ者を多く生み出したが、他方で奇形児や精神病者も多く生んだ。そうした犠牲者を淘汰しながら、人間達は幾世代にも渡って《神》を殺せる力を持った「人間」を作りだしたのだ。
そして、遂に宿願は果たされた。彼らは《神》を滅ぼしたのだ。
《神》の支配を脱した後、初代国王の下、建国の功労者としてリデル家は諸侯に封じられた。王家であるトゥルル家と、アゼル家、メリクル家、そして、今から4年前に取り壊されたクロウ家に並ぶものである。
《神》を滅ぼした後、リデル家の一族は自分たちの血を薄めたいと願った。《神》という強大な敵を失った今、強力な彼らの力を普通の人間達は怖れ始めていた。彼ら一族は、自分たちが第二の《神》として駆逐されないよう、血を薄めることを望んだのだ。
しかし、それは叶わなかった。一族の毒は、既に、生殖行為による体液の交換によってすら、普通の人間を殺してしまうまでに至っていたのだ。命を捨ててまで、彼らとの間に子をなそうとする者はいなかった。
彼らは一族の滅亡か、このまま同族婚を続けるかの二つに一つを強いられた。自ら滅びを選ぶこともできず、彼らは与えられた領地で密やかに同族婚の生活を続けることを選んだ。
そして、王家を始め、普通の人間達も、腫れ物にでも触るが如く彼らを扱った。それでも、今から十五年前までは、彼らの一族は未だ諸侯としての地位にあったのだ。一族にあの男が出るまでは……。
「『狂候』アレス。一族の集大成とも言うべき強大な力と、狂った知性とを兼ね備えた者。儂は実際に《神》を見たことなど無いが、奴にはまさしく、彼ら一族が滅ぼしたはずの、《神》の風格があったように思う」
懐かしむというよりは怯えるように、リファイスはアレスについて語り始めた。
「当時、リューンは5歳、キークは1歳だったのだから、覚えていようはずもないが、奴のもたらした恐怖は国中を覆い尽くした。たった1人の『人間』を相手に、万単位の人間が殺されていったのだ。先王クールガは、四候会議を開いた。それまではリデル家を含めて五候会議とされていたものだ。そこで、アレスを滅ぼすために、各諸侯が人材を出し合うことになった。
王家からは当時25歳だった儂が出た。アゼル家からは『剣聖』ソロムが、メリクル家から『聖女』サアラがそこに名を連ねた。そして、クロウ家からは当時まだ成人するかどうかの若年にもかかわらず、既に王国で一、二を争う魔術師と言われていたヴェインが参加した。
国土の少なからぬ部分を荒廃させる、激しい闘いだったよ。もっとも、荒廃させたのは主に『禁呪』を乱発したヴェインだったがな。そう、アレスはヴェインの『禁呪』をも防ぎきったのだ。
我々は傷付き、もはやこれまで、と思ったとき、アレスは笑いながら自らの胸に剣を突き立て、絶命した。儂たちは余りのことに言葉を失い、身動き一つできなかった。
溢れ出る奴の血の色が不自然なほどに紅く、美しかったのを覚えているよ。奴の血が染み込んだ大地は、今も『死の大地』として、何者も生息できない不毛の地と化している。
こうして災いを滅ぼした我々は、しかし、英雄として讃えられたりはしなかった。奴は紛れもなく、我々諸侯が生み出したものであったのだから。先代の王は、すぐに奴の一族を取り壊すことを決め、リデル一族と狂候アレスの名は禁忌となった」
「では、リリスは……」
「アレスの遺児だ、おそらくは、な。儂にも本当のところはわからん。今から5年近く前、ヴェインが禁域に指定されていたにもかかわらず、廃墟となっていた奴の城に入って見付けてきたのだ。冷凍睡眠の状態にあったのをヴェインが蘇生させたらしい。そのせいで、禁域に触れてはならないとの約定に基づき、クロウ家が取り壊されてしまったことは、お前達も知っている通りだ」
「冷凍睡眠とは、また高度な魔術ですね」
優れた魔術師でもあるリューンが興味深げに呟いた。
エポルエにあっては、人々はごく普通に魔術という力を使える。勿論、高度な技術を行使できるのは一部の者に限られるが、それは何も魔術に限ったことでもないだろう。誰でも刃物を使ってものを切ることはできるが、だからといって誰もが優れた剣士になることができるわけではないのと同じである。
民間人の多くは符術と呼ばれる、初歩の魔術が使えるに過ぎない。符術はあらかじめ魔術文字を用いた魔法陣を紙などに描いておき、必要に応じて魔術を発動させるものだ。符術で用いる魔法陣には、魔術を発動させるための文字が一字だけ欠けており、その文字(起動文字と呼ばれる)を符に描くだけで魔術が発動するようになっている。
民間人の多くは自分で符に魔法陣を描くこともできないため、あらかじめ用途別の魔法陣の描かれた符が魔法屋で売られている。
もう少し高度な魔術師になれば魔術文字を声に出すことによって空間に魔法陣を発現させて、即興で魔術を行使する。更に熟練すれば自らの網膜に魔法陣のイメージを映し出すだけで魔術を行使できる。
熟練の術者は、この過程に一種の記憶術を用いる。事前に魔法陣を構築した上で、それに自分なりの命名を行っておく。その命名と魔法陣の関連づけが上手くできていれば、その名を思い浮かべる、ないし実際に叫ぶだけで記憶が喚起され魔法陣を描くことができるのである。
魔法陣もその熟練の度合いに応じて、一字ないし数字の魔術文字からなる、点、若しくは直線状の簡易な魔法陣から、平面的な広がりを持ったもの、更には空間的な広がりを持った三次元的な魔法陣や、より高度な禁呪(五次元以上の要素を持つ魔法陣はその威力の大きさ、暴走の危険性からこう呼ばれる)まである。
近隣諸国では強兵の国として知られるエポルエにあって、しかし、筋骨たくましい戦士というのは僅かな例外を除いては存在しない。それは優れた戦士達の多くが自らの武術の技量を魔術で補うからだ。
そんな事情もあって、エポルエには優れた魔術師も多い。生死を問わず氷付けにするだけなら、できる人間は数えきれぬほどいるであろう。
しかし、仮死状態のまま数年間保存できる者と言えば、確実なところで旧宮廷魔術師のヴェインと現職の宮廷魔術師ア・イズミ、「聖女」サアラ、それに、辛うじてリューンができるかどうか、というところだろう。それはやはり、高度な魔術であると言えた。
「その後ヴェインは、リリスを闘技場で戦わせるように言ってきた。あ奴は、『試合で殺される分には構わないけど、闘技場の外でリリスを殺したら、暴れるよ』と言って、儂を脅しよったのだ。そこから先はお前達も知っての通りだ。リリスは死ぬこともなく、『殺戮の猫』の二つ名で呼ばれるまでになった。あの少女が呪われた血族、《神狩り》の末裔であれば、何の不思議もないことだろう」
「それにしても、ヴェイン師は一体何を企んでいるのですか?」
リューンがもっともな疑問を口にした。
リューンがヴェインを「師」と呼ぶのは、4人の兄弟の内、キークを除く三人、リューンと、紅一点であるシンシア、それにその双子の弟、次男のカミュは、ヴェインが宮廷魔術師を勤めていた頃に彼の教えを受けているからだ。キークが魔術を習う頃には宮廷魔術師はヴェインの弟子であるア・イズミになっていた。
「さて、な。政治なんぞには何の興味も持っていないあ奴のことだ、王家転覆などは企んではおるまいが……何にしても、リリスは連れ戻さなければなるまい。リリスに狙われるとすれば、儂を始め、旧四候の現当主だろう。少なくとも、我々がリリスの仇であることに変わりはないのだから」
「それでは、ヴェイン師とて無事では済まないのではないですか?」
「面白そうなことがあれば、自らの命をも喜んで賭金にする、ヴェインは昔からそんな奴だったよ」
昔を懐かしんでいるのだろう、リファイスの顔には苦さと幾ばくかの甘さの入り交じった表情が浮かんだ。が、彼はすぐに顔を引き締め、言った。
「なんにしても、速やかに何らかの対処をせねばならんだろう。シンシアを呼んでくれ」




