剣奴リリス
歓声が聞こえる。血の赤に酔う、人々の声。
この日はエポルエ王国第三王子キークの15回目の誕生日であった。エポルエでは15歳の誕生日は成人を祝うものとして特別なものである。このめでたき日に、彼の父にして国王たるリファイスは、キークを闘技場へと誘った。剣奴、すなわち、見世物として命を賭けて戦うことを義務付けられる奴隷達の殺し合いの場である。
二人が腰を下ろしたのは、血塗られた喜劇を一望できる、特等席である。一人前になった息子に、命の価値の不平等を教えるつもりだったのであろう。しかし、キークの気には召さなかったようである。彼は先刻からしきりに顔をしかめている。
「どうした、キークよ。気分が悪いか?」
からかうような口調の中にも息子への気遣いが見て取れるが、キークの機嫌は治らなかった。
「父上、何故皆このように残酷なものを喜んで見ることが出来るのでしょうか? 彼らに殺し合いをさせて、一体何になるというのです?」
「まあ、そう云うな。平民達の気を鎮めるにはこういった見世物が一番なのだ。自分たちよりも惨めな者がいる。その事実こそが彼らの生きる励みになる」
父王の、そんな陳腐な説明に納得したわけでもあるまいが、キークはとりあえず口を閉ざした。
エポルエ王国の国王であるリファイスは4人の子宝に恵まれた。見目麗しく才多き、3人の王子と1人の王女。いずれも正妻ルキアとの間になした子である。後宮に幾人もの寵姫を抱える身でありながら、それらの美姫との間に子がないのは、彼が案外に恐妻家であるからかも知れない。
キークは3番目の王子である。末子であることも手伝って、国王も王妃も、殊の外彼を可愛がった。彼は聡明で、何よりも優しかった。その無偏在な優しさ故に、これから彼が生きていかねばならない、綺麗事だけでは済まない政の世界で、彼が傷付いてしまうのを怖れた国王は、成人の儀を迎えた息子に残酷な見世物を勧めたのである。何もキークに殊更冷酷になって欲しかったわけではない。平民には平民に対するのに相応しい、奴隷には奴隷に対するのに相応しい優しさを、持って貰いたかったのである。
キークが見守る中、闘技場では何組もの剣奴達が殺し合った。殺した相手の首を誇らしげに掲げる者、極度の興奮のため、相手の死にも気付かずに死体を切り刻み続ける者、勝ちはしたものの自らも深手を負い、腸を引きずってのたうち回る者、そんな様子を見て喜ぶ観客達……。キークにはその全てが醜悪なものに感じられた。
剣闘はいよいよ最後の試合を迎えようとしていた。観客達の歓声も高まるばかりである。最後に戦う二人の剣奴が入場してきた。戦うのは、全身を鎧った、身の丈2メル(1メルは約1m)はあろうかという巨漢と、まだ年端もいかぬ少女……。少女!?
「な、何故あんな少女が!?」
少女と言っても、髪は短く、幼さの残る顔だけを見れば、可愛らしい少年と区別が付かないかも知れない。それが遠目からも少女と分かるのは、観客の目を楽しませるためであろう、彼女が純白のドレスで可憐に着飾られていたからである。いたいけな少女が嬲り殺されるのを楽しむという趣向なのか……。
「父上、やめさせて下さい!!」
自分よりも更に幼く見えるその少女の危機を前に、キークは叫ばずにはいられなかった。しかし、父王は取り合わない。そうこうするうちに、闘いの始まりを告げる鐘が鳴った。
巨漢が携えるのは巨大な戦斧、少女の方は長剣であるが、小柄な少女に長剣はいかにも不釣り合いに見えた。こうまで体格と装甲に差があるのであるから、巨漢は少女を弄ぶのかと思われたが、巨漢は思いの外、慎重であった。容易には打ちかからずに丁寧に間合いを計っている。
対する少女は怖がるでもなく両手で剣を下段に構えている、つもりなのか、端からは引きずっている様にしか見えない。
暫しの停滞。痺れを切らしたかのように先に動いたのは少女の方であった。一気に間を詰めながら長剣を逆袈裟に斬り上げる。疾い! 巨漢は辛うじてそれを弾く。
続けて数合打ち合う間に、しかし、少女の劣勢は明らかとなってきた。純粋に剣の技量で言えば、少女の方が勝っていたであろう。が、膂力の差は多少の技量の差では如何ともし難いものであった。しかも、少女は、相手を倒すのに、刃の通る鎧の隙間を狙わなければならない。そのため攻撃は単調になりがちであり、そのことが相手の防御を容易にしていた。斬撃が弾かれる都度、少女は体勢を崩し、それを整えるのに少なからぬ努力を必要とした。
更に数合、満を持して攻勢に転じた巨漢の一撃で、遂に少女の長剣は音高く弾き飛ばされた。少なくとも、観客の眼にはそう映った。が、実際の所は違った。少女は自ら剣を手放したのだ。
渾身の一撃に、予想していた反作用が無かったため、巨漢の身体は泳いでしまった。少女はその隙を見逃さない。迅速かつ柔軟な動きで巨漢に密着するほど間合いを詰め、素早く後ろに回り込む。と、恋人に甘えるかのように両腕を巨漢の首に絡めた。少女の手には、何時、何処から取りだしたものか、短剣が握られている。少女はそれを、兜の目の部分、覗き穴になった個所から突き入れた。刃は眼から脳に達したのであろう、巨漢はうつ伏せに、音を立てて崩れ落ちた。
沸き上がる歓声。少女は死体を前に、無表情のまま優雅に一礼した。
「す、凄い」
キークは驚きを隠せなかった。あんな少女が、あんな巨漢を倒したのだ。しかし、父王も他の観客も、興奮はすれどもそれほど驚いているようにはみえない。
「流石は『殺戮の猫』と言うべきなのだろうな」
「殺戮の、猫……」
キークは口の中でその少女の二つ名を繰り返した。しなやかで、無駄のない少女の動きは、確かに「猫」を思わせた。そして、「殺戮」、という恐ろしい言葉も、無表情、無感動な少女には似つかわしい。
何度か口にして、キークはすっかりその響きの虜になった。恐怖、畏怖、嫌悪、憧憬……、様々な感情が交錯する。キークは生まれて初めて何かを「欲しい」と思った。それは美しい恋慕の情と言うにはほど遠く、いささかねじれてはいたものの、キークの初恋であった。
***
女の剣奴も、さして珍しいワケではない。が、やはり男のそれに比べれば数の少なさは否めない。女であるというだけで観客の受けもよいから、剣闘を運営する側にしてみれば貴重な財産である。顔か腕か、勿論その両方が良ければなおのことだ。
そういった意味で「殺戮の猫」の異名をとるリリスは、極上の剣奴にあたる。そのためか、彼女は他の剣奴達に比べて、破格の厚遇を受けていた。部屋は狭いながらも個室であったし、夏なら、試合が無くとも2日に一度は水浴びを許されていた。また、試合にあたっては携帯する武器に制限は殆ど課されなかった。いずれも、一束いくらの男の剣奴達には決して認められないことであった。もっとも、彼女にとってそのことは何の慰めにもならなかったが。
試合が終わり、リリスは控え室で着替えた。必要以上に派手だが、見るからに安っぽい純白のドレスが返り血で赤く染まらなかったことは、この衣装を選んだ経営者の意に沿わないことかも知れないが、リリスは気にもとめない。
今日も試合を生き延びることが出来た、が、まだ今日を生き抜いたわけではない。一日を無事終えるには、まだこれから、水を浴び、簡素な食事を採らなければならない。そしてその後には眠らなければならないのだ。もう一度目覚めることが出来るとも限らないのに……。
何時殺されるか解らない緊張の中で、リリスは生きる。彼女にとっては、むしろ闘技場で殺し合っている時の方が安心できるのだ。少なくとも誰が、何処から襲いかかってくるのかは、明らかであるから。彼女は眠るときですら、完全には横にならないし、僅かな物音に幾度も目を覚ます。14歳という年の割に、余り発育が良くないのは、そのせいかもしれない。
身を飾ることのできる物など何一つ持ってはいなかったが、短剣だけは何時も身につけている。内股に鞘を紐でくくって。リリスは刃物が嫌いではなかった。一番安心できるのは、金属の冷たさだったから。
こうまでして、何故自分は生きるのか。この問はリリスにとっては無意味だ。答えが明白過ぎるから。別に、生きたいがための努力ではなかった。剣奴には生きる為に殺す者と、殺す為に生きる者がいるが、彼女は、明らかに後者だ。しかし、殺したいのは名も知らぬ剣奴ではない。リリスには殺すべき者がいる。自らの意思に関わらず、殺さなければならない相手が。彼女はそこから逃れられない。それが抗い様の無い運命だからではない。他に選択肢を与えられていないからである。
だから、別に生き永らえたいわけではなくとも、それどころか寧ろ、意味のある生を諦めてしまっていたとしても、目的を達するまでは生きる努力を怠ることは出来なかった。無論、最善の努力にも関わらず死ねるのであれば、それこそ彼女の望むところなのかも知れなかったが……。
剣奴になってからの、この4年間(もっとも、リリスはこの年月を意識してはいないが)は、リリスにとって単調な作業の繰り返しであった。起きる、食べる、殺す、休む。その繰り返し。何も変わらない。
彼女は何も考えず、ただ、黙々と作業をこなす。何か外部からの劇的な変化でも起きなければ、この繰り返しは死ぬまで続くだろう。
しかし、その劇的な変化というものがすぐそこまで迫っていることなど、リリスにはまだ知るべくもなかった。




