氷将ソロム
シンシア達が、ラミス軍と戦っている頃、リリスはエポルエへの侵入を試みていた。
シンシア達が出陣しているため、エポルエに入るための門は開け放たれており、人の行き来も盛んであったが、その分リリスに対する警戒は厳しそうであった。しかし、リリスには秘策があった。
人目に付かない木陰で、リリスは持ってきたドレスに着替え、化粧をしたのである。自分ですら自分と分からないほどの変わり様である、他人ならなおのこと、自分が誰か分からないだろう。
こうして、リリスはとびきりのお洒落で門を通ろうとした。
門番は、1人でエポルエを訪れた、14、5才の美少女を怪しく思ったが、結局はその少女を通してしまった。その少女は彼らが警戒するよう命じられているリリスという少女と、年の頃と髪や瞳の色こそ同じであったが、風貌がかけ離れていたからである。
彼らが探しているのは、痩せぎすで、色黒で、目つきの鋭い、ぼさぼさの髪の少女であって、ほんのりと化粧して微笑を浮かべたドレス姿の美少女では無かったのだ。
シンシアは、この2ヶ月でリリスが面変わりしていることを、キーク以外には話さなかった。ヴェインの陰謀とは関係ないという点でさして重要な情報とは考えていなかったのだ。それが、リリスにとって有利に働いたのである。
何とかエポルエには入れたものの、城へ入るのには同じ手は使えない。どうすればよいのか、リリスは暫し途方に暮れたが、取りあえずは宿をとり、動きやすい服装に着替えて夜を待つことにした。
早めに夕食を採って、辺りが暗くなり始めた頃に城へと向かう。侵入方法を考えるにあたって、まず、リリスは辺りを見回してみた。
王城の城壁は、エポルエ市街を囲う城壁よりも一回り高く、以前街から出たのと同じ手は使えそうもなかった。
ヴェインの用意してくれた道具類の中にあった鈎付きのロープで城壁を乗り越えるという手もあったが、城壁の周りを警邏する兵の数が多く、彼らに見つからずに城壁を乗り越えるのは難しそうである。そこで、リリスは見つからずに城内に侵入することを諦めた。
そして、どうせ見つかるのなら、最短距離で城内に入れる正面からの突破を試みることにした。
リリスにとって幸いだったことに、城の周りの警備を厳重にしている分、城の正門に配備された門番の兵士は平時と異ならず(もっとも、リリスは平時の王城に来たことがなかったため、異ならないことを認識することはできなかったが)、二名だけだった。
これには、もしもの時には他所に配備された兵士がすぐに集まって来られるとの計算があったのだろう。しかし、リリスは兵が集まるまで待ってやったりはしなかった。
リリスは門番に見つからないように、できるだけ正門に近づくと、全速力で走り出した。
「と、とまれ!」
リリスに気付いた門番がリリスに命令するが、当然リリスは止まらない。不意をつかれた門番は、手にしていた槍でリリスを止めようとしたが、リリスは走る速度を緩めないまま軽やかに身をかわし、2人の門番の間を縫うように駆け抜けた。
リリスの侵入を許してしまった門番はやむを得ず、呼び子を吹いて救援を呼ぶ。駆けつけた数人が事情を聞いてリリスを追ったが、リリスの姿を見付けることはできなかった。
***
シンシアらが出払っているこの機をリリスが、いや――ヴェインがと言うべきか――逃すはずがない。そう思って、ソロムはここ数日、剣を振るうのに十分広い謁見の間で、座ったまま休んでいた。それも、一人で、である。彼にとっては他の兵士など邪魔であったから。
リファイスの私室へは此処を通らなければ行くことはできないから、リファイスの護衛をなすにしても、ここは絶好の場所であった。
あてどなく城の中を彷徨っていたリリスは、いつの間にか、広い部屋に辿り着いた。ソロムの待つ、謁見の間である。部屋の中にいた男、ソロムがリリスに声を掛けてきた。
「久しぶりだな、リリス。今日こそ、決着をつけよう」
ソロムの声は何故か優しげに響いた。が、そのとき、リリスを追ってきた兵士達が何人か、謁見の間に現れた。
「下がっていろ」
楽しみを邪魔されたことに機嫌を損ねたのか、先ほどとはうって変わって冷たい声音で、言う。
「し、しかし……」
なおも何か言いたげな兵士達に対して、ソロムは厳かに言い放った。
「俺がこんな年端もいかない少女に負けると思うのか?」
その言葉に兵士達は黙って引き下がった。
「待たせたね」
リリスが頷く。
「始めよう」
言って、ソロムは剣を抜いた。
静かに剣を構えたソロムからは、やはり圧倒的な力を感じる。リリスは早々に催眠状態に入ることにした。意識に別れを告げる。リリスの顔付きが、そして、その雰囲気が、別人のように変わった。
「な、……」
今度はソロムが驚く番であった。二月前とは別人のような威圧感である。
(なんてことだ、この感じは……、そう、ヤツと同じだ)
その受ける圧力に肌が粟立つ。
この時になって初めて、勝てないかも知れない、との思いがソロムの脳裏によぎった。が、身体を走ったのは、恐怖よりも、むしろ歓喜に近いものだった。
リリスも長剣を抜き放った。中段に構えているソロムに対して、相変わらず下段に構える。互いに円を描くように間合いを計る。先に動いたのはリリスだった。
滑るように間合いを詰め、逆袈裟に斬り上げる。中段のソロムはこれを易々と弾くことができるはずであった、が、リリスの剣先がソロムの剣に触れようとする瞬間、リリスの剣は突如としてその軌道を変えた。手首の返しで袈裟斬りに変化したのである。
速度を落とさぬ、見事な変化であったが、ソロムはこれに難なく反応し、弾いた。リリスは驚くでもなく、続けて剣を繰り出す。
様々に変化する光の鞭を思わせるような見事な連撃であったが、ソロムの剣もさながら結界の如く、ことごとくリリスの斬撃を弾く。
一際大きく剣を弾かれて、思わずのけぞったリリスに対して、ソロムは攻勢に転じた。
リリスの剥き出しの足を狙って剣を横に薙ぐ。上方向に大きく弾かれたリリスの剣はこれを防げない。リリスは弾かれた剣の勢いを殺さないように上に跳んで、これをかわした。
宙で身動きのとれないリリスを串刺しにしようとソロムは剣を構える。が、リリスは突きを放たれる前に足を伸ばして、ソロムの剣の上にちょこんと乗ると、剣を踏み台にしてとんぼ返りにソロムの顔に蹴りを放った。
ソロムはのけぞるようにこれを紙一重でかわしたが、彼が体勢を立て直した頃には、リリスの方も体勢を整えていた。再び間合いを計り、見合う。
心地よい緊張感に、ソロムの顔に笑みが浮かんだ。リリスの方はあくまで無表情である。暫しの停滞の後、またもリリスから動いた。
先刻同様、逆袈裟の一撃は、しかし、そのままの軌道でソロムに弾かれた。素直な斬撃に、ソロムが訝る。リリスと目が合う。ふと感じた嫌な予感に、ソロムは無意識に軽く顔を背けた。刹那、ソロムの頬が浅く裂けた。リリスが含み針を吹いたのである。先ほどの蹴りでソロムの視線がリリスから離れた際に口に含んだのだろう。
ソロムは戦慄した。リリスは初めから剣のみで勝とうとも、剣のみで勝てるとも思っていなかったのだ。
そこからソロムは防戦の一方を強いられた。リリスの攻撃は巧妙だった。剣の扱いに不自然さを出さないままに、死角から含み針を吹いたり、つぶてを放ったりするのだ。そのため、ソロムはどこからどのような攻撃が来るかに神経を削らねばならなかった。
そんなソロムの緊張が頂点に達し掛けたとき、リリスはソロムにも分かるようにゆっくりと煽情的な動作で、少しずつスカートをめくり上げ、内股の短剣に手をやった。そして、鞘から短剣を抜くと、一連の動作で素早くソロムに投げつけた。更に、短剣の後を追うように、間髪入れずに刺突を放つ。
「舐めるな!」
ソロムが剣を一閃する。すると、その一太刀でリリスの短剣と長剣の刃が同時に断ち斬られた。リリスは、小剣並に短くなった剣を左手のみに持ち替えた。
ソロムは好機とばかりに攻めたが、剣が短くなっても、リリスの防御は簡単には崩せそうにない。片手でも剣の扱いに支障は生じないようだ。そのため、ソロムはどうしても空いた手を警戒せざるを得なかった。リリスの仕掛けた心理的陥穽に陥ってしまったのだ。
リリスはわざとさり気ない動作で、空いた右手をポケットに入れた。ソロムがこれに気付かないはずがない。ソロムがポケットに入れた手に気をとられた瞬間、ソロムの足は、何時取り出したものやら、リリスが剣を持つ左手で操る鋼線に捕らえられていた。
「ちぃっ」
舌打ちしながらも、何とか鋼線を断ち切ろうと剣を振るう。が、リリスは自らの剣を手放して鋼線を繰ることに集中した。巧みに鋼線を緩めて斬らせない。
リリスは身動きの著しく制限されたソロムに更に鋼線を絡めた上で、彼の後ろをとった。空いた右手で、鞘に呼び戻しておいた内股の短剣を取る。ソロムは背中に冷たいものを感じた。このままでは殺られる……。
一か八か、彼は自らの腹部の、致命傷とはならない位置に剣を突き立て、自分ごとリリスを貫こうとした。ソロムの捨て身の一撃は、ソロムともどもリリスの身体を貫ぬく……筈であった。
常人には決してかわしえない、その不可視の一撃を、リリスは直感だけでわずかに身を捻り、脇腹を深く斬り裂かれながらも避けたのだ。どうやらここまでらしい。ソロムは自分の死を予感し、笑った。
「剣聖」だの「氷将」だのと持ち上げられた自分が年端もいかぬ少女にすら勝てなかったことを可笑しく思ったからである。
しかし、そうまで自分を卑下することもあるまい。この少女は既に「人」ではないのだから……。
死を前にして、ソロムは思った。或いは自分は幸せなのか知れない。闘いにしか喜びを見出せない自分が、自分と同等以上の者と闘って、死んでいけるのであるから。
今なら分かる気がする。ヤツは、「狂候」アレスは、自分と同類だったのだと。ヤツはこれ以上闘いを楽しめる相手がいないことを知って、自分達との闘いの余韻の残る内に自ら命を絶った……そんな気がするのだ。
しかし、リリスの短剣が彼の喉を引き裂き、彼の思考は永遠の中断を強いられた。
死の瞬間、耳元に感じたリリスの吐息は、この上なく甘く、官能的なものだった。
***
「曲者が侵入したぞ」
兵士達の声にキークはたまらず自分の部屋を飛び出した。リリスだ、リリスに違いない、そう思ったからだ。
リリスに逃げられた日から、キークは一人、思い悩んできた。リリスはなぜ自分から逃げたのか、と。いきなりキスをしてしまったのがいけなかったのか、それとも着替えを覗いてしまったのがいけなかったのか……。
思い当たる原因を、他の誰にも相談することができず、キークが自分の軽率な行動に後悔しない日はなかった。
シンシアがヴェインの元へ向かうと聞いた時も、一緒に行ってリリスを取り戻せたらとどれだけ思ったことか。しかし、彼には姉ほどの力もない。ヴェインからリリスを取り戻すなど、絵空事でしかなかった。
だからこそ、リリスが父王とソロムを襲うと盗み聞いた時から、この時を心待ちにしてきたのである。直接リリスと話をする最後の機会であろう、この時を。
キークは、ソロムが謁見の間でリリスを待ち受けていることを知っていたから、直ちにそこへと向かった。キークは、リリスがソロムに敵うとは思っていなかったから、気が焦る。手遅れにならなければよいのだが……。
しかし、謁見の間に着いたキークが見たものは、血溜まりに臥したソロムの傍らに佇む、リリスの姿であった。
信じられない光景に驚きながらも最悪の事態(無論、リリスがソロムに殺されていることである)が避けられていたことにほっと胸を撫で下ろす。
彼は早まる鼓動を抑えることができないままリリスに声を掛けた。
「ねぇ、リリス、僕のこと覚えているかい」
震える声で言って、リリスの顔を、身体をじっと見つめる。
確かに、以前シンシアが言ったように、リリスは格段に綺麗になっていた。そんなリリスに、キークは以前よりも強く惹かれると共に、ヴェインに対して強い嫉妬も感じていた。
リリスが頷いたことにホッとしたキークは、彼女が怪我をしていることに気付いた。
「酷い怪我じゃないか……ソロム師にやられたんだね……ちょっと待って、今治すから……癒しの光!」
キークが描いた円形の魔法陣が、緩やかに、だが確実にリリスを癒していった。魔法陣を維持しながら、キークはリリスに語りかける。
「ねぇ、まだ間に合うよ。復讐なんかやめて、僕と暮らそう」
王宮に忍び込み、将軍を暗殺した者に対して求愛するあたり、恋する少年は強い。ヴェインに言って欲しかったその言葉に、リリスの心はほんの少し揺れたが……リリスは首を横に振った。
「どうして? 僕がヴェインじゃないから? ヴェインなんてリリスを利用しているだけじゃないか」
「!!!」
その言葉に、リリスは無言でキークを睨み付けた。キークはヴェインへの嫉妬心から無意識にヴェインを呼び捨てにしていた。しかし、そんなことはリリスにはどうでも良かった。どうでも良くなかったのは、その後の言葉である。
ヴェインはリリスを愛してなんかいない。ただ利用しているだけ……それは、リリスにも自覚があった。それでも、信じたくはなかったのだ。
一番聞きたくない言葉に、リリスは逆上した。思わず、手にしていた短剣をキークに突き出す。キークはこれを避けることができなかった。
次の瞬間、自分のしてしまったことに気付き、リリスは愕然とした。サアラの時と同じく、いや、正気があった分、今回の方が悪いだろう、無抵抗の人間、自分の怪我を癒してくれていた人間に剣を振るってしまったのだ。与えた傷は、致命傷だ。もう助からない。
それでも、なんとか助けられないかと、リリスはキークに縋り付いた。
そのとき、キークは、リリスがうっすらと化粧をしていることに気付いた。場違いに、顔が紅くなる。キークは思い切って、お願いしてみた。
「ねぇ、リリス、最後に、僕に、キス、してくれないかな」
照れながら言って、しかし、その願いが叶えられるのかを知ることができないまま、キークは息絶えた。その願いに、リリスは、リリスから見ても可愛らしいキークの顔に涙の雨を降らせながら、蒼冷めた彼の唇に熱いキスをした。リリスにとって、それは、初めてのキスだった。
しかし、キークはそれに答えてくれない。あたかも、初めて会ったあの時を鏡に映したかのようだった。
もし、あの時、リリスがキークから逃げ出したりしなければ、或いは、彼はヴェインに代わってリリスの寄る辺となれたのかも知れない。
それは、きっとキークのみならずリリスにとっても幸せなことであったろう。




