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魔剣恋歌  作者: かわせみ
17/22

復讐劇

 一晩ぐっすりと眠ったリリスが、翌朝起きて最初に気付いたことは、隣にヴェインがいないことであった。また寂しさが込み上げてくる。


 ヴェインといい、シンシアといい、何故黙っていなくなってしまうのか、自分が起きるまで待っていてくれても良いではないか。思ってみて少し自分勝手だったと反省する。


 だが、せめて、一緒に起こしてくれても良いではないか。それでも、まあ、良くあることではある。今までの経験からすると、ヴェインは先に起きて食事の用意をしているか、何処かへ出掛けたあと入浴して香油を塗っているか、或いはその両方かである。今日もきっとそうだろう。


 寂しさを忘れるべく、勢い良くベッドから起きると、日課であるストレッチをしてから食堂へと向かった。


 食事の匂いはするから、第1か第3のパターンだろうと、リリスは予想した。しかし、予想は外れた。食事は用意してあったが、ヴェインの姿がないのである。ヴェインが食事を作った後にいなくなったことはこれまでない。リリスの鼓動が不自然に速くなる。


 ゆっくりと辺りを見回したリリスは、テーブルの上に食事と一緒に置いてあった手紙を見付けた。手紙には次のように書いてあった。


『おはよう、可愛いリリス。黙っていなくなってごめんね。急用ができて、暫く帰って来れそうにないんだ。その間に、《家紋》を取り戻しておくといい。在処のわかっている3つについては場所を地図に記してある。3つとも取り戻した頃に又会えると思う。一応、城の入り口に必要と思う物を用意しておいたけど、その他必要な物があればなんでも持っていって良いよ。歩いていくのは大変だから、移動にはレイヴンを使うとよい。あ、朝食はちゃんと食べて行くんだよ。それでは、又会える日を楽しみにしているよ。ヴェインより』


 手紙を読んでも、リリスの鼓動はおさまらなかった。もう二度と会えないと言うわけではなさそうなのがせめてもの救いだが、リリスが3つの《家紋》を取り戻すまで、ヴェインに、リリスに会う気はないのだろう。


 心を落ち着かせるためにも、リリスは朝食を食べた。何だか、妙に味気ない。料理が冷めていることだけが原因ではないだろう。


 むりやり朝食を胃の中に詰め込んで、リリスは城の入り口に行ってみた。手紙にあった通り、旅に必要な物が用意してあった。


 目的の3人の居場所に印を付けた地図、ずしりと重い財布、リリスに使いこなせる武器や道具、火薬や薬物の数々、水、保存食、訓練にも用いた戦闘服が2着と、新しい夜着(今着ている物よりも若干露出度の低いところが、ヴェインの独占欲の強さを表しているのかも知れない)が2着、それらを入れる頑丈な革袋、外套といったところである。


 旅には必要十分であると思われたが、リリスには後もう二つ、どうしても持っていきたい物があった。それは化粧箱と、昨日着たドレスである。重く、かさばるが、ヴェインに会うとき化粧をしてドレスを着ていたかったのだ。移動にはレイヴンを使うのだから、さして邪魔にはならないだろう。レイヴンというのはリリスのお気に入りの黒馬であり、彼女はこの馬で馬術の訓練を行っていたのだ。


 必要な物がそろったところで、リリスは身支度を整え、戦闘服に袖を通した。


 この服は、上はやや厚手の長袖で、隠れたポケットが多く付いており、下は短い半ズボンとそれよりはやや長いがやはり短いスカートを組み合わせた物で、一見ただの普段着に見える。


 ヴェインに貰った短剣は太股にくくりつけてある。服の各所に仕込めるだけ武器を仕込む。長剣を腰に差す。そして、その上からフード付きの外套を纏う。それで一応は、少し怪しい旅人を装うことができた。その他の荷物を革袋に入れ、レイヴンにくくりつける。


 こうして、リリスは旅立った。一刻も早くヴェインに会いたい、その気持ちだけが彼女を動かしていた。


***


 サアラの居所、《聖女の学院》は黒鴉城から馬で10日前後の位置にある。エポルエよりも近いことから、リリスは最初の目的地に此処を選んだ。

 最寄りの村で宿をとってから、二日目の深夜、リリスはようやく《聖女の学院》に辿り着いた。勿論、《聖女の学院》というのは俗称であるから、看板などが出ているわけではないが、地図に依れば辺りには他に建物がないから、間違いはないだろう。


 建物の見える距離にある木にレイヴンをつなぎ、リリスは建物へと歩いていった。


 既に殆どの者が寝てしまっているのであろう。建物は静まりかえっていたが、一室だけ窓から明かりの漏れている部屋がある。


 リリスは取りあえずそこへ向かった。リリスが窓から部屋を覗き込む。机が沢山見える。リリスには知りようもなかったが、そこはサアラが生徒たちに魔術の講義を行っている部屋であった。

そして、部屋の中には、リリスが来るのを待っていたかのように1人佇む者があった。


 リリスには、一目でその女性がサアラであることが分かった。何故なら、リリスはこれほど美しい女性を、「聖女」の名を冠するに相応しい女性を見たことがなかったから。


 先日、月の光を纏ったシンシアを美しいと思ったものだが、この女性は大気をすら纏って輝いて見える。その姿は、今となっては微かな思いでの中に美化されてしまった母を彷彿とさせた。


 茫然と見惚れているリリスに気付き、サアラが窓を開けて話しかけてきた。


「こんばんは。貴女がリリスね? どうぞ、お入りになって」


 優しく、柔らかな美声だ。リリスは、顔を紅潮させながら、招かれるままに、窓から部屋へ入った。


「リファイスから報せがあったわ。貴女に気を付けろ、って。でも、貴女に殺されるのなら、仕方がないわね。結果はどうあれ、私たちが貴女の父君と母君を死に追いやったことに変わりはないのですから……」


 リリスは驚いた。この女性、サアラは、自分が彼女を殺しに来たことを知った上で、自分を招き入れたのだ。が、サアラはリリスの驚きなど意に介さず、続ける。


「それに、貴女がここに来たということは、『彼』も私の死を望んだということなのでしょう」


 サアラはそう言ったものの、自分の間違いに気付き、恥ずかしそうに言い直した。


「違うわね。『彼』は私に何も望んだりはしない。『彼』が望んだのは、貴女が私を殺すこと。私の死は、それに伴う単なる結果に過ぎないんですもの」


 サアラの声は苦い。かつて、彼女はヴェインの許嫁であり、ヴェインは自分より3歳年長の彼女を姉の様に慕ってくれていた。誰よりも聡い、しかしそれ故に不器用で、目の離せない弟。そして、自分の唯一の理解者……。


 しかし、それももう過去の話だ。その「弟」は姉の庇護など必要としない、極めて強い翼を持つ烏となった。もはや何者にも彼の羽ばたきを止めることはできない。


 そう、「彼」はもう自分を必要としていないのだ。そんな残酷な現実だけがここにある。


「……」


 リリスは答えなかった。「彼」というのがヴェインを指しているのだということは何となく理解できたが、サアラが自分に返答を求めているわけではないということもまた理解できたからだ。


 沈黙が広がる。


 サアラの方は、リリスに殺される覚悟はとうにできていたのであろうが、リリスは動けなかった。


 どれだけ無言で見つめ合っただろうか、サアラはふと思いついたかのようにリリスに乞うた。


「少し待って下さらない? この服だけは血で汚したくないの」


 言ってサアラは服を脱ぎ始めた。その服は、サアラが大貴族であることからすれば彼女に相応しいとは言えなかったが、平民にはおいそれと手のでない、なかなかに上等の服だった。飾り気は無いが、それがかえってサアラの美しさを強調していた。


「この服はね、私が病気や怪我を治した方たちがお金を出し合って送ってくれたものなの。皆、食べていくだけで精一杯なのに……」


 思い出しながら言うサアラは、自分がこれから殺されるということを分かっていないかのように嬉しそうだ。服を脱ぎ終え、サアラの優美な肢体が露わになる。彼女はその服を大事そうに教壇の上においた。


「さあ、お待たせして済みませんでした。これで思い残すことはありませんわ」


 笑顔で、言う。頬がほんのりと紅く染まっているのは、下着姿の見事な肢体を晒していることへの羞恥からであろう。その笑顔に、リリスの動揺は更に大きくなった。以前、シンシアがヴェインに言った言葉が脳裏に浮かぶ。


『……あの「魔」って、本当に悪い奴なの?』


 この女性は本当に、父を死に追いやり《家紋》を奪った悪い人なのだろうか? 殺してしまってもいいのだろうか?


 今から自分を殺そうとしている者に対してまで、包み込むように優しい笑みを向けてくれる、そんな女性を殺さなければならないのだろうか?


 葛藤は、しかし、長くは続かなかった。サアラがあの言葉を発してしまったのだ。


「どうしたのです? 私を殺して《家紋》を取り戻さなければいけないのでしょう?」


 《家紋》、その言葉に反応して、リリスは忘我の精神状態に入った。内なるリリスの理性の声はもう届かない。


 催眠状態のリリスは、滑るようにサアラに近づくと、流れるような、無駄のない動きで腰の剣を抜き、その胸に突き刺した。


 サアラは、リリスの豹変ぶりに驚きこそしたものの、それに抵抗したりはしなかった。致命傷を与えたことを知り、リリスは剣を引き抜く。迸る鮮血。


 力を失って後ろに倒れそうになったサアラを、リリスは、その潜在意識がそうさせたのか、血の吹き出る艶めかしい胸に顔を埋めるように抱きしめた。


 リリスを濡らす血は暖かかく、羊水を想わせたが、血の暖かさとは裏腹にサアラの体温は急速に失われつつあった。薄れゆく生命の気配に、もはや「敵」のいないことを認識して、リリスは理性を取り戻した。


 リリスの腕の中には、血塗れになって、まさに息絶えようとしているサアラの身体があった。リリスの瞳に理性の光が戻ったことに気付くと、サアラは最後の力を振り絞って、微笑んだ。


「リリス……最後のお願い、聞いて下さる? 『彼』を……ヴェインを、よろしくお願いします……ね」


 そして、サアラは息絶えた。


 サアラが息絶えたことによって、サアラの中に封じられていた《家紋》の欠片がリリスに宿る。ただの模様だ。こんなもののために自分はなんと取り返しのつかないことをしてしまったのだろうか。何故、憎くもない無抵抗の女性を殺さねばならぬのか。


 自分を闘技場から連れ出した少年――キークと言ったか――彼は、自分のことを「呪われた娘」と言った。それがどういう意味なのか、リリスにはわからなかったが、今自分の置かれている状況を見るに、呪われている、と言われても反論などできないだろう。


 自分に与えられた呪いが、善良な人々に災厄をもたらすものならば、自分には生きる価値などないのではないか。ヴェインが自分の元から姿を消したのも、自分が「呪われた娘」だからなのか……リリスの中で、自責の念が渦巻いていく。


 何気なく、リリスは自分が命を奪ってしまった女性を見た。緋の衣を纏ったサアラは、死してもなお美しかった。


 サアラも、やはりリリスと同じようにヴェインを愛していたのだろう。そのことに気付いて、リリスは悲しさで激しく泣いた。が、リリスの嗚咽は声にならなかった。


***


 ヴェインがリリスの前から姿を消したとき、急用があると彼女に伝えたのは、何も彼女を落ち着かせるための方便だったわけではない。ヴェインには確かに用事があった。


 ただ、それが急用であるかどうかは多分に疑わしい。ヴェインの計画を予定通りに進めるための布石の一手、必須ではないが、やっておいて損はない、その程度のものである。


 その用事とは、エポルエの隣国にして、歴史的な敵国であるラミス王国をけしかけて、エポルエに戦争を仕掛けさせることであった。


 エポルエ王国前宮廷魔術師であるヴェインの名は、彼がその任を辞した今でも、列国において悪魔と同義に扱われている。


 彼の在任中にエポルエに攻め込んだ国の全てが、彼の凶悪な魔術によって文字通り一瞬のうちに多大な損害を被って敗走しているからである。


 混乱の内に逃げ惑う敵軍を冷徹に追撃するのはソロムの役割であり、ソロムの名も、ヴェインの名と同様に恐れられているが、彼への恐怖は寧ろ、勇猛果敢な武人に対する敬意の念に近い。得体の知れないものへの恐怖という意味では、魔術師であるヴェインへの恐怖の方が数段上であろう。


 事実、ここしばらく、エポルエに侵攻する国が無いのは、彼の魔術を怖れてのことであると言っても過言ではない。彼が宮廷魔術師の任を辞したとき、試しにエポルエに兵を送った国があったが、新たにその任に就いたヴェインの愛弟子ア・イズミがこれを撃退したため、ヴェインへの怖れはそのままア・イズミへの怖れへと移行した。


 そして、かかるヴェインへの怖れに加えて、国王リファイスが基本的に外征よりも、内政に情熱を燃やす型の国王であったことから、隣国の殆どが、エポルエに侵攻して、自ら藪をつつくよりは、友好的な関係を保った方が無難であると判断するに至ったのである。


 そのような事情から、ラミス王国国王アスワンの野心にも長く楔が打たれており、彼は表面的にはエポルエとの友好を保っていた。


 先日行われたキーク王子成人の儀にも、彼は不本意ながらも使者を出席させて祝辞と宝物を贈っている。しかし、隙あらばエポルエを併呑したい、との望みはラミス国王として当然のものであり、エポルエの側でも、そんな彼の野望を熟知していた。


 その日、ヴェインは執務中のアスワン王の前に突如姿を現した。来訪を事前に告げることもせず、空間転移でいきなり彼の目の前に現れたのである。


 ヴェインは唖然とするアスワンに傲然と言い放った。


「エポルエを欲しくないか?」


「……」


 アスワンは驚きの余り、咄嗟には口も利けない。


「どうだ? 欲しくないか?」


「ぶっ、無礼な……」


 何とか、それだけ言う。相手を威圧して会話の主導権を握りたかったのだろうが、完全にヴェインに飲まれてしまっている。


 確かに、無礼な行為ではあったろう。ヴェインとしては自分を、祖国を売ってもおかしくない、壊れた魔術師であると見せかけるつもりで、殊更にこのような態度をとったのであるが、「地だろう」と言う反論を否定しきる自信は彼にもない。


「き、貴様、何者だ?」


「ふむ、物を知らない奴だな。私はエポルエ王国前宮廷魔術師、ヴェイン・クロウだ」


 一人称も少し格好をつけて「私」である。


「あっ、あの……」


 悪魔、とでも続けようとしたのか、その名を聞いてアスワンの顔が青ざめる。


 それもその筈である。この男が本当にあのヴェインであれば、最悪の場合、この王城を瞬時に消滅させられかねないのであるから。


 だが、余りにも驚かせ過ぎたらしく、ヴェインがわざわざ剥奪された家名を名乗ってエポルエ王家との確執を示唆したのには気付いて貰えなかったようだ。


「ふむ、それで、貴様の目的は何なのだ?」 


 何とか平静を装い、言う。話を持ちかけてきた以上、今のところ、ヴェインに自分に害をなす気はないということに気付いたのである。


「シンシア王女が欲しいだけだ。王女さえ手に入れば、エポルエがどうなろうと興味はない」


「なるほど」


 ヴェインとしては、相手を安心させるために、殊更に色欲を強調してみせたのであるが、アスワンは素直に納得した。自分というのは、そんなに色好みに見えるのか、と、ヴェインは少し不条理な怒りを感じた。それでも、気を取り直して言う。


「これからすぐエポルエに兵を送れ。迎撃部隊は王女とア・イズミが率いるだろうが、禁呪は防いでやる」


「兵の規模は?」


「リファイスに迎撃部隊を送る気にさせるには、五千で十分だろう」


「それで、儂に何の得があるのかな?」


「お前の軍は囮だ。シンシア、ア・イズミが出陣している間に、私は王宮に刺客を送って、リファイス、ソロムを殺害する。エポルエに軍を率いる者がいなくなれば、その後はお前の軍でもエポルエに勝てるだろうよ。それを思えば、仮に送った五千の兵士が全滅しても安い投資だろう」


「ただの刺客ごときに、あのソロムを殺せるのか?」


「殺せぬと思ったら、こんな回りくどいことはしないさ」


「シンシア、ア・イズミ両嬢のいないときにお主が禁呪とやらで、城ごと吹き飛ばせば良いのではないか?」


「知らないのか? このちっぽけな城と違い、エポルエ城は魔法王国エポルエの魔法技術の粋を集めた、完全な対魔構造だ。流石の私も城ごと奴らを殺すことはできないのさ」


 エポルエ城自体が巨大な防御の魔法陣を構成していることは確かである。その魔法陣は、縦、横、高さ、時間の4つの要素からなる四次元の魔法陣だ。


 一般に、防御用の魔法陣は攻撃用の魔法陣よりも一次元低いもので足りると言われる。つまり、仮に四次元の魔術で攻撃されても、三次元の魔術で防ぐことができるのである。


 これは、防御魔法では、攻撃魔法を、それと同等以上の威力で相殺する必要が必ずしもあるわけではなく、威力を拡散させることができさえすれば目的を達しうるからである。


 もっとも、攻撃側の魔法陣の規模が防御側に較べて著しく大きくなれば同次元の魔法陣であっても、防ぎきれないこともあるのだが、時を要素とする魔法陣は時間の経過に伴ってより強力な魔術となっていくため、半永久的に強くなり続けるエポルエ城の防御魔法は四次元に色彩の要素を加えた五次元の禁呪でも完全に防ぎきるだろう。


 しかし、ヴェインに壊せないと言うのは嘘だ。ヴェインには、一般には知られていない、六次元の魔術……要素として更に音階を加えた禁呪を行使することができるからである。


「ふむ、お主の言いたいことは分かった。で、嫌だと、言ったら?」


「明日にでも、お前の次の国王と相談することになるな」


 露骨な脅迫に、アスワンは暫し考える振りをした、が、答えは既に出ていた。たった五千の兵を惜しんで、自分の命を失うという選択肢は彼には無かったからだ。


「まぁ、よかろう。それにしても、いいのかね? エポルエの法で外患誘致は死罪だろう?」


「エポルエが滅亡するのなら、法など関係あるまい?」


 ヴェインはこの上なく酷薄な笑みを浮かべて言い放った。アスワンはその笑みにぞっとしながらも、この男が今この場で暴れなかったことに、ほっと胸を撫で下ろした。


 こうして、密約は交わされた。


***


 夜が明けたようだ。淡い光が部屋を満たしている。あの後リリスは、動くこともできずにひたすらサアラの遺体に縋り付いて泣き続けたが、泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったようだ。


 夜が明けて、目を覚ましたリリスは、冷たい躯と化したサアラを見て、数時間前の出来事が悪夢などではなかったことを思い知らされた。後悔と自責の念で再び泣きだしそうになった彼女だったが、しかし、懺悔の時間は与えられなかった。講義室の清掃にやってきた1人の少女、おそらくはこの学院で学ぶ者だろう、が、全裸で息絶えている《聖女》サアラと、血で汚れたリリスを見付け、悲鳴をあげたのだ。


「きゃ、きゃーーーー」


 悲鳴は朝の静寂を引き裂いた。すぐに人が集まってくるだろう。自分の姿を見たこの少女を殺すべきか……咄嗟に考えてしまった自分に嫌気がさす。


 殺す必要など無い。少女は恐怖に腰を抜かしており、リリスを追って来られそうもないし、それに、そもそも国王リファイスらにとっては、犯人が誰であるかは明らかであり、目撃されたところで何一つ不都合はないのだ。


 何より、今は、これ以上無抵抗の人の命を奪うことに耐えられそうもない。


 だから、リリスは逃げ出した。


 昨夜入ってきた窓から飛び出し、レイヴンのもとへと走る。背に騒動の気配を感じる。レイヴンの背に飛び乗ると、リリスは無我夢中で逃げた。


 追っ手など来てはいないのに、主を失った《聖女の学院》が見えなくなってもひたすらに逃げた。が、どんなに逃げても、自分からは逃れられそうもなかった。

 

 その後、レイヴンの背に揺られて何処をどう彷徨ったのか良く覚えていない。気が付くとリリスはレイヴンから降り、木にもたれ掛かって、あらぬ方を眺めていた。陽は既に傾いている。もう、丸一日何も食べていないが、食欲はない。このまま消えていくことができればどれだけ楽だろうか。


 剣奴として、闘技場で数え切れない命を奪ってきたリリスであったが、無抵抗の人間を殺したのはこれが初めてである。


 人の命を奪うことに何の違いがあろうか……極端な人道主義者か、極端な非人道主義者ならそう言うかも知れない。


 が、少なくともリリスにとっては、その違いは大きかった。


「ぶるるるる」


 レイヴンがつぶらな瞳で心配そうにこちらを見ている。そう言えば、レイヴンにも無理をさせてしまった。自分は食べたくなくても、レイヴンには何か食べさせてやらねばなるまい。身近なところに目的を見付け、リリスは少し元気を取り戻した。立ち上がって、近くに村がないか探し始める。


 一晩ゆっくり休んだら、城へ行こう。城へ行って、あと2人殺せば、ヴェインに会える。ヴェインに会いたかった。会って、抱きしめて貰いたかった。名前を呼んで欲しかった。頭を撫でて欲しかった。


 遠目に村を見付けたリリスは、レイヴンに乗って再び走り始めた。

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