手合わせ
ヴェインは洞窟を出た。空はもう白んでいる。
アスタルテに食事を与えた後には、彼女の浴びた血の残り香が僅かながらヴェインからも感じられるらしい。らしい、というのは、ヴェインの、大量の血の臭いを嗅いで鈍麻している嗅覚では感じられないからだ。ヴェインが残り香のことを知ったのはリリスの反応によってである。
以来、ヴェインはアスタルテの食事の後には入浴し、香油を塗るよう心がけている。わざわざ香油まで塗るのは、汗とは異なり、一旦身体に染みついた血の臭いは水やお湯で身体を洗うくらいでは落ちないからである。
この日も、ヴェインは城に帰った後入浴し香油を塗ったが、浴室から自室へと向かう途中に、意外にも(?)早く起きたシンシアと出逢ってしまった。
「おはよう、シンシア。折角目覚まし係の侍女がいない所にいるのだから、もっと遅くまで寝ていればいいのに」
「楽っしい、楽っしい礼法や史学の講義を受けなくてもいいと思うと、早く起きたい気がするんだもん」
ヴェインはシンシアの「楽っしい」という口調を真似ようとしたが無理そうだったのでやめた。仮にも一国の王女をして「楽っしい」等と言わしめるのであるから、城での礼法や史学の講義はよほど楽しくないのだろう。
その点に不思議は無いが、否定語なしの「楽っしい」で何故、しっかりと「楽しくない」との意味が通じるのか、ヴェインは不思議に思った。ヴェインのそんな言語学的な疑問をよそに、シンシアは事象の核心を突いてきた。
「ヴェイン師こそ、どうしてこんなに早く起きて入浴してるんですか。しかも、香油まで塗って……」
言いながら、シンシアはヴェインが香油を塗っているという事態の異常さとその意味するところに思い至り、顔を引きつらせた。
ヴェインが何処かへこっそりと出掛けていることにはリリスも感づいているが、リリスはヴェインに問いただしたりはしない。何となく、聞いてはいけないような気がするからだ。
が、シンシアにそんな遠慮はない。シンシアは怒りに震える声で単刀直入に尋ねた。
「ヴェイン師、一体何処に行っていたのですか?」
「別に何処にも行ってないよ。夢見が悪くて、嫌な汗をかいたものだから入浴したのさ」
ヴェインは狼狽した様子もなく答える。が、シンシアも鋭い。
「入浴はともかく、何か他の臭いを誤魔化す意図でもなければ、ヴェイン師は香油なんて塗らないでしょ?」
確かに、ヴェインは、別段お洒落でも、多汗な体質でもなかったから、これまで香油を塗るという習慣を有していなかった。初めて香油を塗ったのは、リリスが黒鴉城の客となってからのことである。嘘がばれたのに、ヴェインは悪びれない。
「シンシア、健康な殿方には乙女には理解できない生理的欲求があるのだよ。だから、そんなこと、尋ねては駄目だよ」
女性の残り香を隠すためだと、暗に言ってのけたのである。シンシアには、流石に何のことか分かったらしい。疑惑が確信に変わり、顔が、怒りと羞恥とで真っ赤に染まる。
「ふっ、不潔だわ」
「ははは、男なんて、そんなもんだよ。嘘つきで下劣で。少なくとも、僕は、ね」
自虐的に言い放ったが、シンシアには少しの感銘も与えられなかったらしい。
シンシアは何も言わずに勢いよく身を翻すと半ば走るように自分に与えられた部屋に戻っていった。不覚にも零れそうになった涙をヴェインに見られたくなかったのだ。
***
自室に戻って、シンシアはベッドに倒れ伏した。思いきり泣きたいのに、涙腺が枯れ果ててしまったかのように涙が出ない。自分はヴェインに一体何を求めているのだろうか。シンシアには、自分の気持ちが分からない。
昔のように頭を撫でて欲しいのか、ずっと側に居て自分だけを見ていて欲しいのか、それとも、共に快楽を貪り合いたいのか……。
少なくとも自分はヴェインにとって、あくまでも幾人かの弟子の中の1人でしかなく、1人の女性としての地位にあるわけではない。ヴェインが誰か自分以外の女性と淫ら事に耽ったとしても、それについてとやかく言う権利は、自分にはないのだ。それが分かっているだけに、シンシアはたまらなく辛くなる。せめて自分の前では、ヴェインに他の女性の話などして欲しくなかった。
自分に後どれほどの魅力があればヴェインの心を捕らえることができるのか。更なる美しさか、賢さか、強さか、それとも優しさなのか。どれも自分には足りない。しかし、どれも違う気がする。まさか本当に幼さという魅力が必要なのか。
何も求めずにただ抱かれるだけなら、或いは、可能なのかも知れない。そして、それが一番楽なのかも知れない。少なくともその一瞬だけは自分だけを見て貰えるだろう。
しかし、それだけでは飽きたらず永遠に彼が欲しいのなら……彼を殺すしかないのだろうか。血みどろのヴェインを胸で抱く自分……。
空想は広がり続け、シンシアはいつしか浅い眠りに墜ちていった。
***
目が覚めてリリスは、ベッドに自分しか居ないことに気付いた。得も言われぬ寂しさが込み上げる。が、それはまだ一時的なものだろう。いつか永遠の孤独に陥る日が来るとしても。
その証拠に、リリスの寂しさはすぐに癒された。ヴェインの作る食事のにおいが漂ってきたのだ。
食堂へ急ぐと、いつものようにヴェインが料理を食卓に並べている。が、シンシアの姿は見えない。
「おはよう、リリス。夕べはよく眠れたかい? シンシアが帰ったら、又一緒に寝ようね」
話しかけてきたヴェインに、リリスが嬉しそうに頷く。
しかし……ぴきっ、と突然空気が張りつめた。
「あっ、そう。やっぱりボクは招かれざる客だったんだね。そんなにお邪魔なら今すぐにでも帰りましょうか?」
シンシアである。不機嫌な、寝起きの顔をしている。
「えっ、いや、別にそういうわけではなくてだね、シンシア、単に独り寝は寂しいなぁと……」
リリスの手前、必死に取り繕おうとするヴェインの言葉を遮り、
「へー」
呆れたように半眼でいう。よほど、昨夜女の所へ行っていたことを当てこすってやろうかとも思ったが、リリスの気持ちを慮って、シンシアは口を噤む。
そんなシンシアに、リリスが、じー、っと恨めしげな視線を送る。自分の隣から居なくなって、別の所で寝ていたことを非難しているのだ。今度はシンシアが慌てる番であった。
「えっ? えーとね、朝早く、目が覚めたんだけど、なんか、寒気がしてね、風邪ひいちゃったかなーと思って、リリスにうつしちゃうと悪いから、自分の部屋に帰ったの。夜風に当たっていたのが悪かったのかなー。だから、リリスと寝るのが嫌になったとかそういうワケじゃないんだよ!」
「何だ、二人一緒に寝ていたのか。シンシアもリリスと寝たかったんだね。それなら、今夜は三人一緒に寝ようか」
ヴェインとシンシアに挟まれて眠っているところを想像して、リリスは幸せになったが、すぐに、それが実現しないことを知った。シンシアが、きっ、とヴェインを睨んだのである。
「不誠実な人と褥を共にすることなんて、できません」
「やれやれ、リリスを独り占めしようなんて、シンシアは意外と独占欲が強いんだねぇ」
シンシアは黙り込んだ。何気ない、ヴェインの一言であったが、シンシアに与えた効果は小さくなかった。シンシアにも思うところがあったのだ。もっとも、独占欲の対象はリリスではなかったが。
冷戦状態に雪解けの気配を見て、ヴェインは少しほっとしながら言った。
「何にせよ、シンシア、食事の後はリリスの修行に付き合ってやっておくれ」
***
食事の後、ヴェインの頼み通り、シンシアはリリスの訓練に付き合うことにした。
「シンシア、魔法は禁止だよ。剣だけで戦って欲しい。それからリリス、キミも剣だけで戦うんだ。短剣や暗器は使ってはいけない」
侮られた、と思ったのだろう、シンシアが口を挟む。
「ボクは短剣や暗器を使って貰っても構わないけど」
「それではリリスの訓練にならないんだ。シンシアに相手をして貰うのはあくまでも、リリスの剣の技量を上げるためだからね。剣という正攻法の力があって初めて、暗器などの奇襲は活きるものなのさ」
それは、ヴェインのところに来てから、リリスが繰り返し言われてきたことだった。
「じゃあ、始めようか」
言って、ヴェインが2人の距離を離す。最初の間合いは伸ばした剣先が触れあう程度だ。
「では、お手並み拝見といきますか、リリス殿」
リリスが頷く。2人はどことなく、楽しそうに見えた。
「始め!」
ヴェインの低音が戦いの始まりを告げた。
2人とも、いきなり斬りかかったりはせずに、やや間合いを離して構えをとった。シンシアは青眼、リリスは下段に構える。リリスが手にしているのは剣奴の時のような、アンバランスな長剣ではなく、自分の身長に合った手頃な長さの剣であるため、引きずっているようには見えない。
ソロムほどの圧倒的な力感はないにしても、構えるシンシアに隙はない。しかも、困ったことに、ここにはスープ皿もない。攻めあぐむリリスより先に、シンシアが動いた。
手にしているのはお互い真剣である。どんなに深い傷を負わせても、おそらくヴェインが治してくれるだろうが、一撃で絶命させることだけは避けなければならない。
そんなことを考えながらシンシアは、手始めに肩口に袈裟斬りに切り下ろした。斬撃の速度も抑えめである。しかし、これはリリスを甘く見すぎていた。
リリスはその一撃を、僅かな動きで難なくかわすと、シンシアの剣が戻りきらない内に剣を斬り上げた。こちらは遠慮なしの一撃である。
「うわっ」
想像以上に、速い。シンシアは必死になってこれを後ろ飛びにかわした。
シンシアに体勢を立て直す暇を与えぬよう、リリスはこれを追うように間を詰め、続けざまに斬撃を放つ。
「ひぃっ」
シンシアは早くも手加減したことを後悔していた。が、泣きそうになりながらもリリスの苛烈な攻めを何とか凌ぎつつ体勢を立て直したあたりはシンシアも流石である。リリスの剣を受け流して、ようやく攻勢に転じる。
シュッ
短く空気を裂いて、シンシアの突きがリリスの喉を精確に貫こうとする。リリスは反射的にそれをかわした。つまり、意識的にかわすことは不可能だったのだ。最初の一撃とは比較にならない速さである。ぞくり、とリリスの背中を冷たいものが滑り落ちた。2人は動きを止めて見つめ合う。
にこ、っとシンシアが場違いな笑みを浮かべた。
笑顔に続いて繰り出された斬撃は途端にリリスを劣勢に追い込んだ。リリスがシンシアの斬撃を捌ききれずに手傷を負い始めたのだ。
リリスの剣よりもシンシアの剣の方が速いことの、これは証だった。剣を振る速度それ自体はどちらもさして変わらない。斬撃の重さは、身長体重とも上回るシンシアに分があるが、それとて大きな差ではない。
それなのに、シンシアの剣の方がリリスより明らかに速いのは剣の軌道、いわゆる太刀筋に違いがあるからである。正式に剣を学んでいるシンシアの太刀筋は我流のリリスに較べ遙かに洗練されており、それが速度の差を生むのだ。
たまらずリリスが間合いを離した。が、シンシアは嵩にかかって後を追ったりはしなかった。それどころか、剣を鞘に収める。居抜きの構えをとったのだ。
居抜きはソロムの得意技であり、彼の教えを受けたシンシアもまたこの技を得意としている。居抜きでは、剣を鞘走らせる分、斬撃の速度も威力も上がる。又、剣が隠れる分、間合いを誤魔化しやすく、剣閃を見切られにくい。
いいことづくめのようにも思えるが、かわされた時の隙の大きさという欠点もある。だからソロムは、
『居抜く時は必ず斬ること。斬れないときには居抜かないこと』
と口を酸っぱくしてシンシアに言ったものだ。更に、
『居抜き自体はそれほど難しい技術ではない。本当に難しく、大切なのは、居抜いた後に再び納刀する、ないしは隙のない構えに移行することだ』
とも教えた。そして、シンシアはその言葉の意味を充分に汲んだ上で居抜きを修得したのである。
そんなシンシアが、今、リリスに対して居抜きの構えを見せている。リリスは居抜きという技の怖さを必ずしも理解していたわけではないが、納刀して身を低くしているシンシアにリリスの本能が危険信号を発していた。
迂闊に攻められない緊張の中、リリスが息を飲んだ刹那、シンシアが動いた。
10メル程の間合いを一息に詰めて、居抜く。リリスは踏み込みの速さに後退しきれない。
キンッ
リリスは何とかその死の一閃を受け止めたが、その衝撃で吹き飛ばされた。尻餅をついてもなお立ち上がろうとしたリリスの眉間にシンシアの剣が突きつけられる。
どうやらここまでのようだ。見ると、リリスの剣は半ばから断ち斬られている。そう、折られたのではなく、斬られたのだ。その切り口は美しくすらある。
リリスが唖然としていると、戦乙女の面目を躍如したシンシアが剣を鞘にしまいながら言った。
「わかった、リリス? ボクに斬れないものはないんだよ」




