糧
《魔》を封印してあるという洞窟は黒鴉城から更に北へ、徒歩で三刻ほどの所にある。陽はもう暮れに近い。今から歩いて向かったのでは、日が落ちるまでに戻っては来られないだろう。ヴェインは空間転移を提案した。
「えっ、空間転移するんですか?」
不賛同の意味を色濃く込めて、シンシアが言う。
「大丈夫だよ。失敗して死ぬにしても一瞬のことで、苦痛も感じないだろう。理想の死に方だと思うけど」
「……」
何を言っても無駄のようだ。シンシアは大きく溜息をついた。リリスはというと、ヴェインのことを信頼しきっているのだろう、怖がる様子もなくヴェインの腕にしがみついている。
リリスと再会してからは、シンシアのリリスに対する嫉妬心とでも言うべき感情も一応は収まっている。それは、半ばヴェインの他に寄る辺の無い「呪われた少女」に対する同情心であるのだろうが、シンシアがリリスを妹のように可愛く思い始めているということもあった。後は、もう少しリリスが自分にも心を開いてくれたら良いのだが……。
空間転移は、当然のことながら成功裏に終わった。ついさっきまで城にいた筈なのに、目の前は一面、鬱蒼と生い茂る樹木だ。ヴェインが指示した先に、《魔》を封印した洞窟があった。上手く使えるのならば、これほど有効な魔術も少ないだろう。
シンシアは、ヴェインの様子から、ヴェインの行使した魔術が、一般に知られる空間転移の魔術とは異なり、物質の中に転移する危険を避けることができるのではないかと推測した。しかしそんな特殊な魔術を行使したであろうヴェインには自慢げな様子もない。
(こんなところはやっぱり素敵なんだよねぇ)
少し顔をほころばせながらシンシアは心の中で呟いた。
「《魔》はこの洞窟の中に封印してある。シンシアの言うとおり、洞窟付近には他の《魔》の気配も感じられるようだ。さっさと入ってしまおう」
ヴェインの言葉に二人は頷く。ヴェインが洞窟の入り口に施してあった封印を解き、三人は洞窟に入った。その後、ヴェインは、他の《魔》が入って来られないように入り口に封印を施しなおした。
洞窟は、入るとすぐに大きな空間になっていた。高さも、広さも、数人が槍を振り回せるだけの余裕がある。《魔》を相手に存分に戦うには打ってつけの場所だ。おそらく天然のものではなく、ヴェインが作ったものだろう。
その空間の一角に、輝く網に絡め取られた、《魔》の姿があった。身長はリリスの2倍ほど、青銅色の肌で均整のとれた体つきをしている。
それは、シンシアがここ短い期間に遭遇したどの《魔》とも異なる特徴を備えていた。その表情に理性や知性の色が見えるのである。
そのため、今までの《魔》に感じたような生理的な嫌悪は感じられず、それどころか、高名な彫刻家の作品を見たときのような感動すら覚えそうだ。もっとも、シンシアには彫刻を鑑賞してそれに感動したことなどなかったからあくまでも想像に過ぎないのだが。
《魔》は身動きを封じられながらも、その深紅の瞳で悠然とこちらを睨め付けている。
「こうして改めて見てみると、やっぱり強そうだねぇ。黒幕の風格がある」
シンシアにはかなり深刻な問題のように思えるのだが、ヴェインの口調は、雨が降りそうなのに雨具を持たずに散歩に出かけたらやはり雨が降ってきた、そんな軽さである。シンシアの呆れた表情を無視してヴェインは続ける。
「簡単に作戦を立てよう。シンシアは正面から、リリスは搦め手から突撃する。私は後ろから援護する。いいね? じゃあ始めようか」
「ちょっ、ちょっと待てぃ!」
流石に我慢しかねて、シンシアが口を挟む。リリスはと言うと、既に突撃の準備をしている。リリスには「搦め手」の意味は良く分からなかったのだが、要は正面以外から攻めればよいのだと理解したようだ。
「何で、ボクがあんな強そうな奴に正面から突撃しなきゃなんないのよ!」
「おや、この中にエポルエの誇る『凶暴切り裂き娘』以上に正面突破に適した者がいると思うのかい?」
「きょうぼうきりさきむすめ……」
噛み締めるように、繰り返す。最近になってようやく自覚が芽生えてきたからだろう、常の彼女らしくなく、むきになって言い返したりはしなかった。
それでも、すぐに気を取り直すと、シンシアはヴェインに思い切って気になっていたことを尋ねてみた。
「それよりも、ねぇ、ヴェイン師、なんていうかさ、あの《魔》って本当に悪い奴なの? なんかそうは見えないんだけど……」
「ふむ、悪い奴なら殺してもいいのかい?」
シンシアが返答に詰まると、ヴェインは皮肉っぽい笑いを浮かべ、続けた。
「言わせて貰うなら、善悪なんて言うのはあくまで相対的なものだよ。そんなものは置かれている立場や状況によっていくらでも変わる。善悪なんていうあやふやなものを理由に命を奪うことほど、命を侮辱することはないね。そんな愚かな理由に比べれば、食欲なり、性欲なり、自分の欲望を満たすために命を奪う方がよほど健全だ。自己を正当化することなく、自らが罪深い存在であることを自覚しているのだからね。あの《魔》が殺されるのは、奴が悪だからではない。奴が単なる『糧』に過ぎないからだ。人間に食される豚や牛と同じさ。奴を殺すことでキミやリリスが強くなるのなら、奴の善悪など関係ないよ」
「なっ、そんなことを言ったら、強者が欲しいままに弱者を殺すことまで認められてしまうじゃないですか!」
「認められるよ。強者は弱者を殺してもよい。しかし、当然それには相応の危険も伴うのだということを自覚しなければならないけどね。多くの人間が自分より弱い者を殺さないのは、単に損得勘定の結果だよ。人を殺せば、より強い人間や権力、団結した多くの弱者に自分が殺されるという危険を負うことになる。自分が殺される危険を冒してまで人を殺すのは割に合わない、そう考えているから人を殺さないのさ。いかなる人間、権力、団結にも、自分を害すことができないと知っていれば、人は自分の欲望のために人を殺すことに躊躇いはしないよ」
「納得できません。そんなのはヴェイン師の偏見です。強い力を弱い人々の為に使っているサアラ様の様な方もいるじゃないですか」
かつての戦友、聖女サアラの名を聞いて、ヴェインの顔にほろ苦い笑みが浮かんだが、彼は自分の意見を変えなかった。
「彼女が他人のために力を使っているというのかい? それも誤解だね。彼女は善人だから人を助けているわけではない。彼女は単に人の喜ぶ顔を見るのが好きなだけさ。人の喜ぶ顔が見たい、そんな自分の欲望の為に力を使っているんだ。人が助けられているのは彼女の欲望充足の結果に過ぎない。それが、人の苦しむ顔が見たいという欲望の為に力を使うのと、どう異なると言うんだ?」
ヴェインの見解は苛烈に過ぎ、シンシアにとって到底同調しうるものではなかったが、シンシアはそれ以上の議論を避けた。このような議論でヴェインに抗しうるとは思われなかったし、シンシアの意見によってヴェインが自己の考えを改めるとは、それ以上に思われなかったからだ。
シンシアが黙ると、ヴェインもそれ以上、自説を披瀝したりせず、軽い口調で言った。
「まっ、何にせよあの《魔》との戦いを君に強要したりはしないよ。《魔》の側に荷担するというのであれば、僕もそれなりの対応をしなくちゃならないが……」
「邪魔はしません。でも、戦うのは遠慮させて下さい」
「そうか、なら仕方ないね。というわけだから、リリス、作戦変更だ。どんな手を使ってもいいから1人でやってみなさい」
二人の深刻なやりとりなど歯牙にも掛けず戦闘開始の合図を待っていたリリスにヴェインが告げた。リリスは無言で頷く。シンシアはヴェインの後ろに下がった。
「じゃあ、戦闘開始だ。封印を解くよ」
言うが早いか、それまで《魔》の動きを完全に封じていた光の網が音もなく消滅した。
これまでの鬱積からか、それとも戒めが解かれたことに侮辱を感じでもしたのだろうか、《魔》は、封印が解かれるなり、様子を見るでもなく最も近い人間、リリスに襲いかかってきた。リリスも長剣を抜き放ちながら《魔》に向けて直線的に突進する。
剣の長さを活かして、先に攻撃を放ったのはリリスだった。自分から最も近い位置にある部位、《魔》の右腕に斬撃を浴びせる。《魔》はそれを避けたりせず、腕に力を込めることで斬撃を弾き飛ばした。キンッと硬質的な音が響く。リリスは受けた反作用を殺すように後ろへ飛び、間合いを取った。
昨日シンシアが倒した《魔》同様、この《魔》の皮膚もそう易々とは刃を通してくれそうにない。
《魔》は、人間の中で最も弱そうなリリスを無視して、諸悪の権化であろうヴェインに襲いかかろうとしたが、そこで気付いた。いつの間にか自分たち――《魔》自身とリリスだ――とヴェイン達とを隔てるように目に見える形で結界が張られているのだ。先にリリス(勿論、《魔》はこの固有名詞を認識してなどいない)を倒さない限りここからは出られないようだ。
無論、リリスを殺したからと言ってここから出られるわけではないだろう。結界の中で、ヴェインの魔術に殺されるか、再び動きを封じられるか、そんなところであろう。
それでも《魔》は、リリスに殺されるよりは、リリスを殺すことを選んだようだ。ゆっくりとリリスに向き直った。しなやかな《魔》の肉体には力が満ちており、それが闘気の如く目に見える気さえする。圧倒的な威圧感だ。そんな《魔》が再びリリスに襲いかかった。
間を詰めると同時に、鋭い爪をリリス目掛けて振り下ろす。当たれば易々とリリスの喉笛を引き裂いてしまうであろうその一撃を前に、しかしリリスは冷静であった。半歩下がりながら、広げられた手の、指と指の間に刃を立てるようにして、その一撃を受ける。
《魔》の手はその剣を滑るようにして反らされた。いかな強靱な《魔》の皮膚であっても指の叉では強度が劣っていたのだろう、刃は《魔》の手を深々と切り裂いた。青に近い、異様な色の血が飛び散る。
「上手い!」
思わず歓声を上げたのはシンシアだ。
「GYYYY!」
致命傷にはほど遠かったであろうが、それでも苦痛があったのだろう、《魔》は耳慣れぬ奇声を発しながら、なおもリリスを引き裂こうと今度は逆の手を振り下ろした。先の轍は踏むまいと、手は広げられてはいない。やむなくリリスは後ろ飛びにそれをかわす。
『……リリス、相手が人以外の生物で、その皮膚に刃が通らないときは、攻め方を考えないといけない。どんなに皮膚が硬い生物であっても、眼球や口腔は柔らかく、刃を通しやすいものなんだ……』
ヴェインの講義が頭をよぎる。リリスは隠しもっていた短剣を二本、素早く準備し、突進してくる《魔》目掛けて投げつけた。短剣は一直線に《魔》の両の眼目掛けて飛ぶ。《魔》はそれを手で薙ぎ払った。その一瞬、短剣に向けた目を再びリリスへと戻そうとしたとき、《魔》の両目はリリスの姿を見失っていた。
更に続く一瞬、《魔》は体内に灼けるような痛みを感じ、次の一瞬には自分が吐血し、断末魔の叫びをあげていることに気付いた。
「GHOOO……」
低く、かすれるような呻きだった。
『……もし、相手の防御が堅くて目や口に剣を突き刺すのが難しければ、肛門、つまり排泄のための穴だね、そこに剣を突き刺してみるのも一つの手だよ。口から食べ物を摂取する生物は、大抵肛門も持っているし、そこは柔らかい内臓に繋がっているからね』
リリスはヴェインの教え通り、《魔》が短剣に気を取られた隙に地を滑るように《魔》の股の下をくぐり、《魔》の肛門に剣を突き立てたのだ。
強敵を倒したリリスには、しかし、さしたる感慨もなさそうだ。冷たい無表情で《魔》が息絶えたのを確認すると《魔》から剣を引き抜き、剣に付着した血や汚物を持っていた布で丁寧に拭い、剣を鞘に収める。
その後、万面の笑顔で(悪女を思わせる豹変ぶりである)ヴェインの元に走り、彼に抱きついた。
戦慄したのはシンシアである。リリスが倒した《魔》は、昨日自分が相手をした《魔》のどれよりも遙かに強かったはずである。にもかかわらず、リリスはシンシアよりも遙かに容易くこれを倒したのである。
容易く見えるのは相手の実力を出させぬうちに勝っているからだろう。一月ほど前、初めてリリスと相対した時、シンシアはリリスに勝てないとは思わなかった。
しかし、今は……、果たして自分に彼女を止めることができるかどうか。
(ううん、弱気になるべきじゃないよね。ボクに斬れないものなんて、ないんだから)
シンシアは自分に言い聞かせた。
リリスを抱きしめ、頭を撫でながら、ヴェインがシンシアの心を読んだかのように声を掛けてきた。
「これが今のリリスだよ。一月前とは随分違うだろ? でも、リリスはまだまだ強くなる。楽しみだと思わないかい?」
「リリスを強くすることが、ヴェイン師の目的なのですか?」
「まあ、それに近いね。少なくとも王家転覆を狙ったりしているわけではない。そんなこと、リファイスも心配してはいないだろうけどね」
やはりと言おうか、真の目的は明かして貰えぬようだ。シンシアもそれ以上の追及を諦めた。
「なんにしても、もう此処に用はない。後片付けをして早く帰ろう」
言いながら魔法陣を描く。《魔》の死骸が光に包まれ、その場から消失した。
「何をしたんですか?」
「燃えにくそうだったんでね、元の世界にお帰り頂いた」
何の罪もなく、殺されるために異界に召還され、死体となって元の世界に送り返され、埋葬されることもなく何処かに放置された《魔》。もし、自分が同じことをされたら……シンシアの心は暫し、晴れなかった。




