第八九話:日常への帰還(前編)
目を開けて。最初に見たのは、金色の毛並みだった。
「おはよう、琴ちゃん」
聞き慣れた声。いつもと同じ、温かな。その音に釣られるように、琴葉の瞳から一筋の涙がこぼれた。横から伸びてきた指が、その涙を拭う。
「おはようございます。……もう少し、休みますか?」
「…………いいえ。起きます」
間を置いて、彼女は答える。視線を隣に向けると、そこには柔らかな笑みを浮かべた玲哉がいた。
「そうですか。でも、無理はしないでくださいね」
その言葉に頷きながら、彼女はゆっくりと体を起こす。側に横たわっていた彼も、続いて布団から出た。2人はそのまま連れ立って、顔を洗いに外に出る。廊下は、冬の冷たい空気で満たされていた。
「……もうすぐ年が変わるのに」
誰に言うともなく、呟く女の背を撫でて、少年は目を伏せる。家族を亡くしたばかりの彼女にとって、祝い事が多いこの時期は辛いだろうと。そう思いながら、彼は彼女に寄り添って歩いた。廊下を曲がって、洗面所に行き、交代で顔を洗う。真冬の水の冷たさが、2人の意識を覚醒させた。
「……よし」
真新しいタオルを使ってから、琴葉は気持ちを切り替える。いつまでも落ち込んではいられないと。
「掃除をしましょう。雑巾を貸していただけますか?」
「駄目です」
意気込んで発した言葉は、笑顔の玲哉に切り捨てられた。彼は深々とため息をつく。
「……いいですか、琴葉さん。あなたは僕の奥さんになるのですから、召使いがするようなことはしないでください。あなたは良くても、僕は見ていられませんので」
「…………はい」
笑顔で圧をかけられて、女は思わず目を逸らした。足元にいる狐が、真剣な顔で同意する。
「まあ、当然だね。動いていた方が気が晴れるとしても、わざわざ家事をする必要はない。2人で外を散歩するとか、そのくらいでいいと思うよ」
「……では、それで」
全てを見通している神の言葉に、彼女は逆らう気もおきず、受け入れた。玲哉が笑みを深めて告げる。
「分かりました。それなら温かくして、外に出ましょう。近くに公園もありますから、そこを散策するのもいいですね」
そう言って、彼は人を呼び、外出の準備を整えさせる。分厚い上着を被せられて、彼女は少し大げさだと思いながらも、黙って従った。けれど。
「……もういいでしょう? 行きましょう、玲哉さん」
手袋や耳あてを渡されそうになったところで、琴葉は苦笑を浮かべながら少年の手を取る。頬を赤らめて、彼女は続けた。
「こうして手を繋いでいれば、私はそれで十分ですから」




