第六六話:悪夢
真っ暗な闇の中から、声だけが聞こえる。
『あなたには何もできないんだから、礼儀作法だけはしっかりなさい』
『……はい、お母様』
『分かっていると思うけれど、あなたはいつか、お嫁にいくのよ。嫁ぎ先で笑われないように。常に完璧を心がけなさい』
『はい。……頑張ります』
明らかに苛立っている女性に、小さな声で返す子供。それは昔の、琴葉だった。
『ねえ、お父様。お姉様は、いつお家から出て行くの?』
『……さあ、いつになるかは……』
『あの人には力がないから、桜花を支援してくださる方に嫁がせて、結びつきを強めるのでしょう? 早くなさらないと、貰い手が無くなるのではありませんか?』
『……青葉。そんなことは、お前が気にすることではない。琴葉にはしかるべき時に、私の口から伝えておく』
遠くの方から、別の声が聞こえてくる。通りがかりに小耳に挟んだ、父と妹の会話。浮かんでは消える過去の映像を見続けて、琴葉はようやく気がついた。
(……そうか。これは、夢なんだ)
ずっと心に刺さっていた、家族との思い出。良いものではないことは理解していた。それでも少しは、愛されていると思っていた。否。思いたかった。
「琴葉さん」
ふと気づくと、側には少年が立っていた。薄い茶色の、くせっ毛が特徴的な男の子。
「大丈夫。僕はあなたの側にいますよ。……今も」
そう言って。彼は小さな手を伸ばし、琴葉の手を握った。
「……玲哉さん」
彼女は自分を押さえきれず、彼を見つめて口を開いた。
「ずっと一緒にいてください。……お願い。置いて、いかないで……」
ゆるゆると意識が浮上する。目を開けると、見慣れた和室の天井が視界に入った。屋敷の空き部屋。
「……あ。ここは……」
左手に、他人の熱が伝わっている。それを感じて、彼女は首だけを動かして横を見た。枕元には、彼がいる。
「……玲哉、さん」
「こんばんは、琴葉さん。……お疲れでしょう?」
「いえ、あの。……手を」
「ああ、これですか。あなたがうなされていたので、思わず……ご迷惑でしたか?」
「……いいえ。嬉しかったです。とても」
琴葉は体を横向きにして、玲哉の手を包むように右手を重ねた。そのまま、彼女は愛おしむように彼の手を握る。
「ありがとうございます、玲哉さん。……もう少しだけ、このままにしていてもいいですか?」
「……勿論です」
笑みを深めて、少年もまた、右手を伸ばす。両手を繋いで、女は満足そうにした。枕元で見守っていた小さな狐が、初めて玲哉の肩に乗る。その姿を見て、彼女は気が抜けたような笑みを見せた。




