第六二話:桜花の異変(後編)
「……そして、このままなら。君はきっと、自分を犠牲にしてしまう。だから今は、眠っていて」
暁明が呟く。それと同時に、琴葉の意識は唐突に途切れた。大きな狐は、倒れる彼女を受け止めて、抱え込む。それを見て、悪魔は残念そうに言った。
「……あーあ、これで殺せなくなっちゃった。ごめんね、青葉ちゃん」
「何よ、まだ……!」
「諦めるなって? ……そうは言っても、オレには先が読めるからなぁ」
声を荒らげる少女に圧されて、男が苦笑を浮かべる。地面に伸びた影から、黒い触手が何本も突き出してきた。その先端は、鋭利なナイフのように尖っている。
「しょーがない。勝てないことは分かってるけど、最期まで戦ってあげようか」
漆黒の鞭のような触手が、全て琴葉に向かってくる。宵闇は無言で地に落ちていた枝を拾い、刀に変えてそれを斬った。地に落ちた欠片が、寄り集まって再生する。勝ち目はないが、負けることもない戦いに。青葉は焦れて、声を上げた。
「なんで。なんでよ、姉様。ズルいわ。ひどいわ。譲ってくれたっていいじゃない。私にだって、少しくらい――」
姉への恨み言。ざらついた不快感を滲ませる音が、不意に途切れる。少女の足が、フラリとよろけた。下にいる暁明が、悼むように目を伏せる。
「限界だな」
宵闇が、淡々とした声で言った。少女の側にいる悪魔は、彼女の体を抱き止めて嗤う。
「――なんだ。もう、サヨナラなの? 勿体ないなあ。こんなに美味しい子には、滅多に会えないのに」
青葉は答えない。その目はガラス玉のようで、何の感情も映さなかった。宵闇は2人を見上げて、刀の切っ先を男に向ける。
「その娘を食い尽くしたのは、お前だろう。……満足したのなら、もう帰れ」
「……そうだねえ。久しぶりに、お腹いっぱいになったから……。寝てもいいかも。僕はどうせ、またいつか、誰かに喚ばれることだろうし?」
舌を出して唇を舐めながら、アモンは両手を広げる。支えを失った青葉の体が、地面に落ちて動かなくなった。
「それじゃあ、お休み。君たちと会うことは……もう、無さそうだね」
最後まで、余裕のある態度を崩さないまま。彼は目の前に黒い革表紙の本を作り出して、自分からその中に入っていった。その姿が消えて、本が青葉の横に落ちる。宵闇は一連の流れを見て、深いため息をついた。
「……愚かな女だ。欲望のままに振る舞って、あげくの果てに自滅するとは」
強風が吹き抜ける。周囲に立ち込めていた霧が吹き散らされて、本のページがパタパタと動いた。




