第六一話:桜花の異変(中編)
思考が止まった。脳が理解を拒んでいた。そんな彼女を見て、男は告げる。
「実際に見ないと、分からないかな? ……うーん、じゃあ。初めは知ってる人がいいよね」
雑貨屋で、目についた小物を買うような気軽さで。彼は黒い触手を伸ばし、1人の人間を吊り上げる。スーツ姿の、細身の女性。
「……焼津さん……!」
その姿を見て、琴葉は思わず声を上げた。アモンは不気味な笑みを浮かべる。
「ねえ、君はコレの代わりに死ねる?」
その瞬間に。焼津が懐から、銃を取り出して彼に向ける。彼は眉ひとつ動かさず、弾が発射されるのと同時に、触手をしならせて焼津を投げ飛ばした。銀色の弾丸はその反動で、あらぬ方向に向かっていく。焼津はそれを見て唇を噛み、目を閉じた。真っ逆さまに落ちる彼女を助けるために、暁明は素早くその下に入る。ドサリと鈍い音がした。大きな狐を下敷きにした女は、悔しさと安堵が混ざった息を吐く。
「……ありがとうございます、暁明様」
狐は答えず、彼女を下ろす。その眼差しは、冷ややかで。焼津のことなど、どうでもいいと言わんばかりだ。その意図を察して、彼女は素早く門から出ていく。
「……ねえ」
その走り去る足音を、かき消すように。黙っていた青葉が、頬を膨らませて言葉を発した。
「アモンは、未来が見えるんじゃなかったの。もっと、簡単に殺せる相手にしてよ」
「えー。そんないちいち、全部見てなんていられないよ。オレが疲れちゃうじゃんか。でも、仕方ないね。青葉ちゃんの願いだし」
2人の笑い声が重なる。琴葉は蒼白な顔になった。全てが悪い夢だったら、どんなにいいか。そう思った、彼女の隣で。
「琴葉。あの女のことは諦めろ。……魂が、もう半分ほど欠けている。お前の妹は、こうしている間にも中身を失い続けているんだ。思考も意志も、記憶もすらも削られて。最後には空になった肉体だけが残る。それが悪魔と契約した者の末路だ」
宵闇は淡白な声で言った。女が悲痛な声で叫ぶ。
「そんな……! 何とかして、助けることはできませんか?! お父様とお母様に先立たれて、この上青葉にも置いて逝かれてしまったら、私……!!」
「……琴ちゃん」
彼女の想いを、暁明は誰よりも理解していた。故に、彼は彼女の側に来て、真剣な面持ちで口を開く。
「残念だけど、それは不可能なことなんだ。……1度契約を結んでしまえば、自分自身が消えるまで、自由になることはできない」
どんな家族でも、彼女は本気で愛していた。たとえ嫌われていたとしても、こんな形で別れることは想像していなかっただろう。その悲しみを、真正面から受け止めて。狐は庭木より大きくなり、彼女に覆い被さった。




