第六十話:桜花の異変(前編)
桜の木が、根本から切り倒されている。青葉が見知らぬ男性と並んで、その切り株の上に浮いている。桜花の本家に転移した琴葉が最初に見たのは、そんな光景だった。
「……え?」
何が起きているのか理解しきれず、彼女は立ち止まって目を擦る。それでも、目に見えるものは変わらない。空に浮かぶ、青葉と男。そして、その前には。人が複数、倒れていた。
「……嘘」
倒れている人間の顔を見て、女は青ざめる。生気のない表情と、折れ曲がった手足。それは彼女が、誰より長く接してきた人たちの、変わり果てた姿だった。
「……お父様! お母様!」
思わず叫び、駆け寄った彼女を見て、妹が笑う。赤い口元が歪んで、小さな声が溢れ落ちた。
「アモン。あの人も、殺して」
「――分かった」
男が頷き、その周囲に黒い刃が浮かぶ。禍々しい気を放つ刃は、全て琴葉に向かって飛んだ。そして彼女に届く寸前で、金色の障壁に阻まれる。父親の肌に触れて、その冷たさに絶望していた彼女は、刃が地面に落ちた音を聞いて顔を上げた。
「……何を、してるの」
狐が硬い声を出す。青葉は首を傾げた。
「……何って。邪魔なものを、消そうとしているだけですわ」
「そんなモノの力を借りて? その男は、悪魔だろう。早く契約を切らないと、取り返しのつかないことになるよ」
「……嫌ですわ。あなたの言うことなんて、もう聞きません。暁明様は、私のことを咎めるばかりで。私の望みを、1度も叶えてくださらなかった。……彼とは違うの」
少女が男の腕に抱きつく。アモンと呼ばれた黒髪の男は、勝ち誇ったような笑みを見せた。
「そういうことだから、ごめんね」
黒い霧が周囲に広がる。宵闇が琴葉の横に立って、2人を見上げた。
「魂を代償にした願いか。だが、他のことはともかく、先程のものは叶わんぞ。ここには俺たちがいるからな」
その言葉にも、アモンは余裕を崩さない。青葉の腰に手を回して、彼は考え込むような顔をした。
「……まあねえ。オレだってそこそこ旧い悪魔だから、大抵のことは出来るけど。流石に神様が複数、敵に回ったら分が悪い。だから、ここは……」
霧が屋敷に充満していく。暁明と宵闇が身構えた。
「取引といこう、琴葉ちゃん。この屋敷にいる召使いと、外を囲んでる沢山の人達。オレはそいつらを、これから1人ずつ殺していく。止めたければ、君が死んで」
黒い霧を従えて。悪魔は、軽い調子で言い放つ。その言葉を耳にした琴葉は、目を見開いて固まった。




