第五八話:温泉旅館(後編)
「……玲哉さん。その、良かったら……」
しばらくして。顔を真っ赤にした彼女は、部屋に併設された露天風呂の方を見ながら言った。
「一緒に入っていただけますか……? 私は作法が分からなくて」
「……ええ、もちろん」
少年は笑って頷き、彼女と共に更衣室に入る。その後を追った狐は、目を細めて深い息を吐いた。
(……少しでも琴ちゃんの体を見ようとしたら、燃やしてやろうと思ってたけど)
そこは心得たもので、彼はサッサと服を脱いで、先に風呂場に行っている。一方琴葉は、時間をかけて裸になり、胸に手を当てて深呼吸していた。
「……ねえ、琴ちゃん」
その足元に立った暁明は、彼女を見上げて口を開く。
「本当にいいの?」
「……はい」
彼女は真剣な顔をする。
「玲哉さんのことは、暁明様も認めていらっしゃるのでしょう? 何よりあの方の中には、宵闇様がいらっしゃいます。だから間違いも起こらないと……」
狐は話が進むにつれて、妙な顔になっていった。やがて女は、不安そうに言葉を落とす。
「……あ、あの。何か間違っていたでしょうか」
「……いや」
彼女の前で。狐の体が段々と縮む。元の大きさに戻った彼は、尻尾をパタリと動かした。
「何でもないよ。君の言うことにも一理あると、思っただけ。……それじゃあ、行こうか」
「……はい」
嬉しそうにする琴葉と共に、暁明は露天風呂の方に移動した。湯気で周囲が白く煙る。硫黄の匂いが強くなって、温泉に来たという実感が深まった。
「ここで体を洗ってから、お湯に浸かるんです」
離れた場所から、少年の声が聞こえてくる。女はコクリと首を動かして、洗い場に座った。その横を通って、狐は先に湯に入る。
「……うん、いい湯だ」
水面に浮かんで、彼は微笑む。その目の前で、2人は体に付いた泡を流して、連れ立って風呂に体を沈めた。
「……温かい。それに何だか、ピリピリしますね」
「ここの温泉は酸性ですから。……なので、長湯は良くないと言われていますし、めぐり湯も戒められているんですよ」
「へえ……。玲哉さんは、物知りですね」
感心しながら、琴葉はまだ明るい空を見上げた。昼からお風呂に入る贅沢を噛み締めて、彼女は柔らかい笑みを浮かべる。
「……ありがとうございます。私のために、ここまでしてくださって」
「僕自身のためでもありますから」
彼は相変わらず、穏やかな口調で言葉を返す。その返事は予想通りのもので、女は思わず笑ってしまった。
(私は本当に恵まれてる……)
目を閉じて、女は強張った手足を伸ばす。その様子を、狐は黙って見守っていた。




