第五七話:温泉旅館(中編)
しばらくして、琴葉がようやく落ち着けた頃。部屋の扉が開いて、着物の女性が姿を見せた。年は50代くらいだろうか。シワの多い顔立ちで、背筋を伸ばして立っている。玲哉は横目でそちらを見ると、琴葉を連れて、彼女を出迎えた。
「この度は、創銅庵へお越しくださり、ありがとうございます」
部屋に上がった老女は、その場で正座をし、深々と頭を下げる。それを見て、少年は苦笑を浮かべた。
「頭を上げてください。お礼を言うのは、僕の方です。急な予約でしたのに、こんなに良い部屋を用意していただけるなんて。感謝してもしきれません」
「ほんのご恩返しですよ。あなた様がいらっしゃらなければ、この旅館は潰れてしまっていたでしょうから」
顔を上げた老女は、真顔で告げた。そして玲哉の横にいる女を見て、表情を和らげる。
「……奥様ですか? お可愛らしい方ですね」
その言葉に、琴葉は顔を朱色に染める。少年は笑みを深めて、彼女の肩に腕を回した。
「そうでしょう? 婚約している人ですから、正しくは将来の妻ですが。僕にとっては、誰よりも大切な女性です」
その言葉を耳にして。恥ずかしさと居た堪れなさで、女が俯く。老女はどこか、微笑ましそうにその様を見ていた。
「……それでは、あまりお邪魔をしてはなりませんね。お食事をお運びする時間だけ、お伺いしてもよろしいですか?」
「そうですね。では、夜9時頃に」
「分かりました。……ごゆっくり」
短い会話の後に、額をもう1度床につけてから。老女は立ち上がり、部屋を出た。扉が閉まると同時に、琴葉は玲哉の服の袖を握りしめて口を開く。
「……あ、あの。玲哉、さん。私のこと、奥さんって……」
「……ええ」
穏やかな声で短く返して、彼は彼女の方を向く。
「僕はそのつもりでしたが……ご迷惑でしたか?」
顔を覗きこまれて問いかけられ、女は慌てて首を振った。
「……いえ! そんなこと、私」
暁明がため息をついて床に下りる。彼は体を膨らませると、黙って琴葉に寄り添った。その体温を感じながら、彼女は勇気をふり絞る。
「……私は何もできませんけど。それでも、あなたと一緒になりたいです」
小さな声で紡がれた言葉を、玲哉はしっかりと聞き取った。そして彼は、満足げに笑う。
「嬉しいです、琴葉さん。僕に、あなたを守る権利をくださるのですね。何もできないだなんて、そんなこと。あなたと一生を共にできることに比べれば、些細な問題です」
「……玲哉さん」
女は感極まったように、少年を見つめる。その唇に、自分のそれを重ねて。彼はとても幸せそうに、笑ってみせた。




