第五六話:温泉旅館(前編)
「ではカードで。よろしいですね?」
創銅庵に到着すると、玲哉は運転手が何かを言う前に、カードを出してニッコリと笑った。その堂々とした態度を見て、運転手は値段を確認することを止めた。彼は問題なく処理を済ませてカードを返し、車から下りてトランクを開ける。その間に、少年は琴葉に手を貸して、外に出た。
「……わぁ……」
目の前の高い日本家屋を見上げて、彼女は瞳を輝かせる。運転手がトランクから出したスーツケースを受け取った玲哉は、その横に並んで口を開いた。
「草津三湯ではありませんが、ここも良い宿なんですよ。露天風呂付きの客室を用意してもらっていますから、まずはそこに行きましょう」
女は少年の言葉に逆らわず、その手を取る。キョロキョロと、落ち着かなさそうな顔で周囲を見ながら、彼女は彼と一緒に歩きだした。小さな狐は当たり前のような顔で、定位置に座って欠伸をする。そうして建物の中に入った2人は、年配の従業員に出迎えられて、広い部屋に通された。
「こちらが玲哉様のお部屋になります。後ほど女将が、ご挨拶に伺いますので」
「それはそれは。ご丁寧に、ありがとうございます」
玲哉と従業員の会話をよそに、琴葉は部屋の中を興味深そうに見て回った。畳敷きの和室に、大きな窓。外には大きな池のようなものが見える。白い煙が立つそこは、湯畑と呼ばれる場所だったが、彼女には何なのかも分からなかった。ただ、見たことのない風景に引き込まれて、窓の側で立ち尽くす。
「……外に出るのは、そんなに楽しい?」
「……分かりません。でも」
暁明の問いに、彼女は目を伏せて答える。
「せっかく玲哉さんが連れてきてくださったのですから、楽しみたいと思います」
「……そんなに気負わないでください」
従業員との会話を終えた玲哉が、苦笑を浮かべて話に割り込む。思わず振り返った琴葉は、その優しい表情を見て言葉に詰まった。
「……あ」
「僕はあなたが安らげるように、場所を変えただけです。……ここなら、あなたを傷つける人はいません」
女は力が抜けたようにへたり込む。その体を支えて、少年は彼女の額に軽く口づけた。彼女は目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出す。
「……玲哉さん。もう少しだけ、こうしていてもいいですか……?」
身も心も、全てを任せたいと思った。それは琴葉の、初めての望み。そして、玲哉は。返答の代わりに、彼女を抱く腕の力を強めた。その小さな、可愛らしい願い事を。全力で叶えてやるために。




