第三六話:お出かけ(前編)
翌日。早朝。琴葉は目を覚まし、起き上がって胸に手を当てた。
「温かい……」
どこかボンヤリとした表情で呟く彼女に、狐がすり寄る。彼は彼女と目が合うと、穏やかな笑みを浮かべた。
「おはよう。……今日はゆっくり休むといい。宵闇も出かけたことだしね」
「……宵闇様が? こんなに早く? 一体何が……」
「君は知らなくてもいい話だ。……それよりも、何かやりたいことはない?」
そう言う彼は、宵闇から事情を聞いている。青葉がやったことと、彼の対応。その全てを聞いた上で、自分は関わらないと約束して彼を見送った狐は、巫女の前ではそのことをおくびにも出さなかった。事情を全く知らない琴葉は、彼の言葉を聞いて考え込む。
「やりたいこと……?」
実家では、やるべきことが決められていた。日中は家中の掃除をして、夕方からは風呂を沸かして、夜には青葉に押し付けられた宿題を終わらせる。隙間時間も、桜花の娘としての教養を身につけるために費やしていた彼女にとって、自分のために使う時間など無かった。故に、やりたいことも分からなくて。女は項垂れつつ、返した。
「……ごめんなさい。何も思いつかなくて……」
「では外に出ようか。奴が置いていった金がある。人の世界で、1日遊ぶだけなら十分だろう」
その返答を予想していたのか、狐は言って財布を差し出す。中には金銭ではなく、1枚のカードが入っていた。黒い、薄い板。その中にいくら入っているのか、外からでは確認できず、女は戸惑う。
「これが……? 本当に? いいのでしょうか。私は、頂いた御恩の半分も、お返しできていないのに」
「勿論だとも」
神が笑みを深める。青い目が、彼女を見据えて輝いた。
「いいかい、琴ちゃん。君がそれを使うことが、奴への返礼になるんだ。遠慮なんてしなくていい」
人の世で、その薄い板にどれほどの価値があるのか。彼は正しく理解していた。その上で、彼女に告げる。
「望みを、見つけて。何でもいい。僕たちは、君に自由に生きてほしい。休みを貰っても、やりたいことが分からないなら。色々なことをやってみるんだ。大丈夫。君に危険はない。僕が付いているからね」
諭されて、琴葉はようやく動きだす。布団を畳み、押し入れにしまって、タンスから出した服に着替える。動作自体は遅かったが、それは女が、初めて自分の考えで動いたからだと知っていたので。狐は何も語らずに、側で彼女を見守っていた。最後に、琴葉は床に置かれた財布を大事そうに懐に入れて、部屋を出る。これからのことに、大きな不安と、少しの期待を持ちながら。




