第三五話:苦労人
その日の夕方。明かりの落ちた庁舎に入り、佐藤は深いため息をついた。暗い階段を上って、彼は仕事場の電気を付けにいく。
「……これからお仕事ですか?」
その背に向かって、声がかけられる。彼は疲れ切った顔で振り返った。
「……そうなりますね」
「熱心な人ですね。もう定時を過ぎているのに」
「それはあなたの方ですよ。……帰らなかったのですか?」
そこにいた女……焼津は2人分のコーヒーを淹れて、彼に渡しながら話を続ける。
「先輩のことですから、きっと報告書を書くために戻ってくると思いまして」
「……ありがとうございます。それもありますが、もう1つ。面倒な事を頼まれましてね」
コーヒーを受け取って、佐藤はパソコンを立ち上げる。その横で、焼津は首を傾げていた。
「面倒な事、ですか?」
「……ええ。あなたも知っている、お嬢様の我儘ですよ」
苦笑を浮かべて、彼は告げる。そして、お嬢様という単語を耳にして。彼女も同じ、苦い表情を浮かべた。
「また桜花家の次女ですか。やりたい放題とはこのことですね。今度は何と?」
「橘花が管理している施設の視察を、勝手にやっておくそうです。あちら側には、終わったという連絡だけしろと言われました」
「…………は?」
予想外の話に、焼津か目を丸くして固まる。佐藤はコーヒーを飲みながら言った。
「あなたの気持ちは分かりますよ。僕も彼女からその話を聞いたときには、同じ反応をしましたから」
「……え、あ、そうですよね? 良かった……ではなく! 青葉様は、本気でそんなことを仰っていたんですか?!」
「私が見る限り、あれは本気のようでしたね。一応お止めしたのですが、『あなたは言われたことだけやっていればいいのよ。得意でしょ、そういうの』と返されて、そのまま家に入られました」
「……信じられない。バレないとでも思っているんでしょうか。それとも桜花には、橘花を出し抜くような技が伝わっているとか?」
「……だとよろしいのですがね。今の彼女は、視野が狭まっていますから。私は先に、玲哉さんにお伝えしておこうかと」
彼は画面から目を離さずに、キーボードを叩きながら言葉を落とす。焼津はホッとしたような顔で、自分の分のコーヒーを飲みながら頷いた。
「……そうですね。私もその方が良いと思います。彼女の自己主張のために、神を敵に回すわけにはいきませんから」
画面に並ぶ文字。日付と場所、起きている現象の種類を書いたその下に、特記事項として並ぶ項目。神の同行という言葉を、彼女は見つめた。この部署に配属されるまで、話には聞いていても信じていなかった現象。神の顕現という、異常事態。それに対する考えは、政府の中でも一致している。国を滅ぼさないために、対応には気をつけろ。それが彼らの見解だった。




