第三三話:橘の家(後編)
室内が静まり返る。老人は怯んで、黙ってしまった。
「……ええと、あの」
一方で。それまで大人しく座っていた琴葉が、遠慮がちに口を開く。
「不勉強で、申し訳ありません。……ですが桜花と橘花は、この国を支える柱として、並び立っているのでは? どちらが上だなんて、そんなこと……」
「右近の桜だよ、琴ちゃん」
笑みを深めて、狐が答える。
「右より左の方が偉いんだっけ? 僕らからすれば、そんなのは人間が勝手に決めたことだけど。……僕と宵闇は対等だ。始祖の2人も、無理に差を付けようとはしなかった。僕はその心を尊いと思っている。琴ちゃんの認識が正しいと」
柔らかな声音は変わらない。だが、そこには確かな圧が存在していた。老人はそれを感じ取り、ゴクリと喉を動かす。その姿を見て、宵闇は呆れたように息を吐いた。
「……いいか、玄一。今の言葉を撤回し、すぐに立ち去るのなら俺は咎めん。アキのことも止めてやる。……だが、そうでないなら放っておくぞ。橘花と盟約を交わしたのは俺であって、アキではない。神が本気で怒ればどうなるか、知らぬわけでもあるまい?」
告げられた言葉に、翁は慌てて立ち上がる。彼は神々に向かって頭を下げてから、足早に部屋を出ていった。外が少し騒がしくなり、狐が渋い顔をする。
「……あいつさあ。謝る相手、間違えてるよね?」
「そうだな。最初から最後まで、失礼な男だ」
彼の言葉に同意して、宵闇は女の肩を抱き寄せる。
「なあ、琴葉」
「……そんなこと」
彼女は苦笑を浮かべて返す。
「私は気にしておりません。……あの時、考え抜いた末に奏上した祝詞を褒めて頂けただけで、嬉しかったので」
そう言われて、狐は機嫌を良くした。彼は机の上に下り、琴葉の前に姿を見せる。
「うんうん、君は相変わらず可愛いね」
その体が伸び上がり、鼻先が女のそれとぶつかる。彼女は目を見開いた。
「僕の愛し子。君には教えておいてあげる。僕が晶子から貰った名前。彼女たちと宵闇だけが呼べる、真の名を」
狐がクツクツと笑って、琴葉に息を吹きかける。彼女は咄嗟に目を閉じた。頭の中に、何かが流れ込んでくる。
「……う、あ……旭、様……?」
目眩がして、女は倒れそうになった。が、その体は宵闇に抱えられていて、崩れない。
「……先を越されたな」
そして。彼はそんなことを呟きながら、琴葉の耳元で囁いた。音にならない言葉。だが、何故か。彼女にはそれが、正しく伝わる。
「……は、う……貴方は、朔、様。……はい。覚えておきます……」
どこかボンヤリとした口調で。彼女は言って、意識を手放す。神々はそんな女を、大切そうに見つめていた。




