第三二話:橘の家(前編)
家に上がって、すぐに。琴葉は玲哉に連れられて、客間に向かった。
「……失礼します」
硬い声でそう言って、彼が客間の戸を開ける。その先にいた客人は、老年の男だった。厳格そうな表情のまま、机に向かっていた彼は、少年の声を聞いてそちらを見る。
「早かったな。政府からの依頼とやらは、余程手応えが無かったと見える」
それは、思わず頭を垂れたくなるような、重々しい声だった。玲哉は琴葉と並んで、彼の前に座りながら目を伏せる。
「……暁明様のお力添えがありましたので」
「……何だと」
老人は目だけを動かして、彼を見る。射抜くような、鋭い視線に。少年は息を詰めた。
「お前でないことは分かっていたが、宵闇様でもなかったのか。……誰の入れ知恵だ。そこに居る桜花の出来損ないか?」
その言葉に、彼女が何かを言う前に。玲哉は弾かれたように、顔を上げる。
「……っ、違います!」
室内を震わすような大声に、老人が眉を動かす。少年は彼と目を合わせて続けた。
「琴葉さんは、ご自分が信じていらっしゃる神様に向けて祈っただけです。何一つ、責められるようなことはありません。……そもそも。事態を解決してくださるのなら、どちらであってもいいでしょう!」
「――いいや」
激昂する玲哉を見返して、男はそれまでと変わらない冷ややかな声で告げる。
「桜花と橘花は並び立つが、地位は我らの方が上だ。それが古来よりの決まり。……玲哉。お前も橘の跡継ぎなら、嫁にはよく言い聞かせて……」
老人の話は、そこで途切れた。紅に染まった少年の瞳が、彼を見据える。
「黙れ、人間」
その口から発される言葉は、紛れもない神のもの。男はそれに、初めて狼狽えたような様子を見せる。
「俺たちの巫女に、下らんことを吹き込むな。権力争いなら、お前たちだけでやっていろ」
「……しかし」
それでも。老人は言い返そうとして、口を開いた。琴葉の肩で丸まっていた狐が起き上がり、彼を見据える。
「煩いな。……宵闇、この男、誰?」
「先々代の当主だ。いつまで経っても、力関係を理解しようとせん」
「ふうん。面倒な奴だね」
暁明は質問しておいて、興味もなさげに息を吐く。
「……だけどさ、それは駄目だよ、君。だってね。あの程度じゃ、僕は全然満足できない。なのに、これからは宵闇に頼れだなんて。そんな命令をしたら、優しい琴ちゃんは従ってしまう。……ほら。僕に得は無いだろう?」
柔らかな、けれど有無を言わせぬ言葉で、狐は続ける。
「それにね。宵闇だって、そんな理由で選ばれたくは無いはずだ。僕たちは、いつだって。彼女の意思を重んじるから」




