第二九話:即席の神域
「ドウシテ、ジャマヲスルノ」
目も口もない影の声は、低く掠れて聞き取りづらい。その、どこか遠い所から響いてくるような音を耳にして。唇を噛んでいた青葉は、影を見据えて刀印を結んだ。
「煩いわね。さっさと消えて。私にとって、あなたは邪魔なの」
「――そこまでだ」
狐が琴葉の肩から飛び下りて、桜の絨毯に着地する。彼は花弁の上を滑るように移動して、影の前で足を止めた。
「桜花青葉。僕の不興を買いたくなければ、そこで大人しくしていろ。僕は琴葉の願いを聞く。……故に」
狐の姿が大きくなり、その尾が増える。側にいた宵闇は、黙したままで目を細めた。建物よりも巨大になった狐は、影を見下ろして問いかける。
「さあ、話してみろ。君たちの未練を」
影が揺れ、その輪郭が崩れる。高く、低く、大きく、小さな声が。何重にもなって、その場に響いた。
「コロサレタノ」
「ナオルッテ、イワレタノニ」
「キラレタノ」
「ソコハイタクモナカッタノニ」
「……子供が」
「レンシュウダッテ」
「ワタシハミヨリガナカッタカラ」
「シンデモ、モンクヲイウヒトガイナカッタカラ」
複数の言葉の中に、1つだけハッキリとしたものがあった。その声に、狐は僅かに耳を動かす。
「子供が出来たら、結婚してくれるって。……なのに酷いの」
「ヒドイ、ヒドイ」
「イヤナヤツ」
「シンデシマエ」
「イナクナッテシマエ」
「子供がいたのよ。このお腹に、確かに。……あの人は約束を守る気がなかったのね。でも、いいわ。今はここに居るのだもの」
「クルシメ」
「ワタシタチト」
「オレタチトオナジヨウニ」
「クルシミツヅケロ」
「未来永劫」
ハッキリとした声は、最後には他の雑音と混ざっていた。人型の影は崩れて、不定形でブヨブヨとした気味の悪い塊になり、建物の中に戻ろうとする。だが、それは結界によって阻まれた。狐は呆れた様子で呟く。
「……そういうことか。どうやら、ここを経営していた医師というのは、どうしようもない男だったようだ」
9本の尻尾が揺れる。その真上に、太陽と同じ輝きを放つ炎の球体が浮かんだ。
「本来なら、僕が関わることじゃない。けれど頼まれてしまったからね。たとえ君たちが望まなくとも、あちら側に送ってあげるよ」
球体はフワリと浮き上がり、黒い塊に近づく。塊はそれから逃げようとして、分裂した。小さな黒い芋虫のようになったソレは、ボトボトと地面に落ちていく。地面に敷かれた桜の花弁は、落ちてきた芋虫を受け止めて、1匹ずつ包み込んでいった。




