第9球 新しい野球の夜明け
サヨナラ勝ちが決まった瞬間、アークスのベンチは、まるで火薬庫が爆発したかのような狂喜乱舞に包まれた。
「うおおおおおおっ! 勝った! 俺たち、勝ったぞ!」
「見たか、ゴルダの奴ら! これが俺たちの野球だ!」
「カイ! お前の足のおかげだ!」
「ニャに言ってんだ! リコの選球眼がなきゃ、始まってもいなかったニャ!」
「ふふん、私の逆転タイムリーがなければ、どうなっていたことか」
「まあまあ、みんなの活躍あっての勝利ですよ」
ロッカールームに戻ってからも、その興奮は冷めるどころか、ますます熱を帯びていく。 選手たちは、これまで互いに向けていた不信感や疑念が嘘のように、種族の垣根を越えて肩を組み、健闘を称えあっていた。
練習試合での惨敗、空中分解寸前だったチーム。あの絶望的な雰囲気から、たった数日で、俺たちは全く別のチームに生まれ変わっていた。
俺が再定義した戦術。そして、それを見事に体現してくれた選手たち。その両方が噛み合った時に生まれた勝利という名の果実は、想像以上に甘く、そして俺たちの心を一つにする強い力を持っていた。
(……これが、チームか)
俺は壁に寄りかかり、その光景を微笑ましく見つめていた。
前世の高校時代、甲子園を目指して仲間たちと泣き、笑った、あの熱い日々。忘れていたはずの感覚が、今、この異世界で、蘇りつつあった。
その時だった。
バン! とロッカールームの扉が、乱暴に開かれた。
そこに立っていたのは、汗だくで、悔しさを顔中に滲ませながらも、どこか晴れやかな表情をした、ゴルダ・ハンマーズの4番、ダインだった。
「……ミノタウロスはいるか!」
ダインのその声に、ロッカールームの喧騒が一瞬で静まり返る。
全員の視線が、ダインと、そして彼に名を指されたバルガスに集まった。
「おう、俺ならここにいるぜ。何か用か、ドワーフ」
バルガスは、ダインの前にゆっくりと歩み出る。一触即発の空気に、カイやゼノが警戒するように腰を落とす。
だが、ダインは、バルガスの目の前で立ち止まると、深々と、そして潔く頭を下げた。
「……完敗だ。お前たちの野球、見事だった」
「……!」
「だが、言っておく。ワシは、お前のパワーに負けたわけじゃない」
ダインは顔を上げ、俺の方を鋭く睨みつける。
「ワシが負けたのは、あのキャッチャーの小僧の、頭脳にだ。まんまと一杯食わされたわ」
「うるせえ! 勝ちは勝ちだ!」
バルガスは、そう吠えながらも、その顔はどこか嬉しそうだ。
「でもまあ、お前のパワーも大したもんだったぜ。グランの奴、お前と勝負した後、手が痺れてるってボヤいてたからな」
「フン、当たり前だ」
ダインは、誇らしげに胸を張る。
「ワシのスイングは、大地を揺るがす。だが、お前の最後の一撃も、天を衝くほどの見事な一撃だった。……あの勝負、正直、少しだけ楽しかったぞ」
「へへっ、だろ?」
二人の巨大なパワーヒッターは、互いの実力を認め合い、ニヤリと笑い合った。
ダインは、踵を返し、扉に向かう。そして、去り際に、バルガスにだけ聞こえるように言った。
「次こそは、小細工なしのパワー勝負で、お前を捻り潰してやる。それまで、絶対に他の奴らに負けるんじゃねえぞ」
「……望むところだ!」
扉が閉まると、ロッカールームには再び、温かい歓声が戻ってきた。
種族を超えた、ライバル関係の芽生え。 それは、聖球戯が持つ、もう一つの素晴らしい側面だった。
◇
祝勝会も終わり、選手たちがそれぞれの宿舎へと帰っていく。
俺は、その喧騒から一人離れ、月明かりに照らされたグラウンドの整備を始めていた。
荒れたマウンドをトンボで均し、ベースの周りの土を払う。
この作業が好きだった。思考がクリアになり、頭の中が整理されていく。
(今日の勝因は、奇襲が成功したこと。そして、グランが俺を信じてくれたことだ)
(だが、次の相手はそうはいかない。シルヴァニア・リーフス。エルフの鉄壁の守備と、超精密コントロールの投手。今日の戦術は、おそらく通用しないだろう)
(どうすれば、あの見えざる壁を崩せる……?)
俺が次の戦いに思考を巡らせていると、不意に、背後から低い声がかけられた。
「……親方」
振り返ると、そこには、いつの間にか、グランが立っていた。
彼は、俺からトンボを無言で受け取ると、黙々と、俺の隣でマウンドを均し始めた。
しばらく、気まずい沈黙が流れる。
聞こえるのは、土を均す音と、夜風の音だけ。
やがて、グランは、作業をしながら、ポツリ、ポツリと語り始めた。
「……悪かったな、親方」
「……何がだ?」
「全部だ。ワシは、お前のことを、心の底では信じていなかった。人間族の小僧の、小賢しい知恵だと、どこかで見下していた」
「……」
「ワシらドワーフは、力こそが正義だと教わって育つ。小細工は、弱者のやることだと。だが、今日、ワシは負けた。ワシの信じてきた力が、お前の知恵に、完膚なきまでに負けたんだ」
俺は、トンボをかける手を止め、グランの横顔を見た。
その表情には、悔しさよりも、何か新しい世界を知ったことへの、戸惑いと、そして微かな興奮が浮かんでいた。
「俺の方こそ、悪かったよ、グラン」
俺は、微笑んで言った。
「俺は、あんたたちの誇りを、文化を、何も理解しようとしなかった。ただ、俺の知る『正しさ』を、一方的に押し付けていただけだ。……今日の試合、あんたが俺を信じてくれなかったら、絶対に勝てなかった」
俺の言葉に、グランは動きを止め、少しだけ驚いたような顔をした。
そして、照れ臭そうに頭をガシガシと掻くと、深く、深く、頷いた。
「……親方」
グランは、俺の目をまっすぐに見つめて、言った。
「次は何をすればいい? ワシのこの腕、この力、お前のために使うと決めた。だから、ワシに仕事をくれ」
その瞳には、もう疑念の色はなかった。
そこにあるのは、親方への、絶対的な信頼と忠誠。
俺は、彼のその想いに、力強く頷き返した。
◇
グランと別れ、俺は一人、マウンドの中央に大の字に寝転がった。
ひんやりとした土の感触が、心地いい。
見上げた夜空には、俺のいた世界では見たこともない、紫と緑の月が浮かんでいた。
(……本当に、遠い場所に来ちまったんだな)
俺は、転生してからの日々を思い出す。
知識チートで無双できると信じていた、傲慢な自分。
この世界の理不尽さに打ちのめされ、絶望した自分。
親友を、俺の独りよがりな知識で壊してしまった、深い後悔。
そして、全てを諦めていた俺を、救ってくれた、あの子供たちの笑顔。
「(野球は変わらない。ボールを投げて、打って、捕る。その本質は、日本でも、この世界でも同じだ)」
だが、と俺は思う。
「(世界が変われば、答えも変わる。選手の数だけ、種族の数だけ、そこには無限の答えがあるんだ)」
俺の脳裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。
頑固なドワーフ、純粋なミノタウロス、プライドの高いエルフ、気分屋の獣人……。
なんて面倒で、なんて愛おしい、理不尽の塊たちだろうか。
俺は確信する。
「(俺がやるべきは、日本の野球をコピーすることじゃない。この世界の理不尽さと、俺の知識を融合させて、まだ誰も見たことのない、全く新しい野球を、こいつらと創り出すことだ!)」
その瞬間、俺の心の中にあった最後の迷いが、完全に消え去った。
東の空が、ほんのりと白み始めている。
それはまるで、アークスというチームと、そしてソラという一人の転生者の、「新しい野球の夜明け」を、祝福しているかのようだった。
俺は、土の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、勢いよく起き上がった。
その目にはもう、次の戦いがはっきりと見えている。
「さあ、次のパズルを解きに行こうか。――鉄壁の守備を誇る、エルフの国が相手だ」