第8球 4番の舞台
アークスの猛攻は続き、試合は最終回を迎えていた。
スコアボードには「5-1」という、試合前には誰もが想像しなかったであろうスコアが刻まれている。 ゴルダ・ハンマーズの選手たちの肩は、彼らが振るう巨大なバットと同じくらい、重く垂れ下がっていた。戦意は、もはやない。
「っしゃあ! あと一人!」
「このまま終わらせるぞ!」
ベンチから威勢のいい声が飛ぶ。チームの雰囲気は最高だ。
だが、その中で一人だけ、全く別の理由でボルテージを最高潮に高めている男がいた。
「うおお……うおおおおお……!」
ベンチの隅で、巨大な影が、まるで檻の中の猛牛のように荒い息を吐いている。
俺たちの不動の4番、ミノタウロスのバルガスだ。
彼は、この試合、まだ一度もまともにバットを振らせてもらえていなかった。
前の打席は、チャンスの場面で相手バッテリーに勝負を避けられ、敬遠気味の四球。その前の打席も、その前の打席も、俺の指示で徹底して「繋ぎ」に徹していた。
「(まだか……俺の出番はまだなのか、キャプテン……!)」
バルガスの心の声が、その巨体から発せられる熱気と共に、俺のところまで伝わってくるようだ。
彼の頭の中には、複雑な戦術やチームの勝利といったものはない。
ただ一つ。「ボールを、誰よりも遠くへ、強く、叩き潰したい」。その純粋すぎるほどの破壊衝動だけが、渦巻いている。
俺が彼に与えた『最終兵器』という役割は、彼のモチベーションを極限まで高めると同時に、そのフラストレーションを爆発寸前まで溜め込ませていた。
そして、その時は来た。
ツーアウト。だが、カイとリコの足、そしてゼノとエルマの技が作ったチャンスで、ランナーは二、三塁。
バッターボックスには、4番のバルガス。
「うおおおおおっ! バルガース!」
「決めろよ、4番!」
「お前のための舞台だぞ!」
ベンチの仲間たちが、期待を込めて叫ぶ。
俺はタイムを取り、ゆっくりとネクストバッターズサークルにいるバルガスの元へ向かった。
「キャ、キャプテン!」
バルガスは、まるで主人に褒めてもらいたい巨大な犬のように、目をキラキラさせて俺を見つめている。その手には、もはや彼の体の一部と化した、大木のようなバットが握りしめられていた。
「待たせたな、バルガス」
「おう! やっとか! 腕が鳴って、もうちぎれちまいそうだぜ!」
「ああ。ここが、お前のために俺が用意した、最高の『舞台』だ」
俺は、バルガスの巨大な肩をポンと叩く。
そして、彼の大きな瞳を、まっすぐに見つめて言った。
「いいか、バルガス。難しいことは、何も考えるな」
「……おう」
「配球も、コースも、何も読むな。お前のその野生の勘だけを信じろ」
「……おう!」
「そして、狙うは一つだ」
俺は、バットで遥か彼方を指し示した。
グラウンドの最も深い場所。センターのバックスクリーンだ。
「――あそこへ、お前の全てを叩き込んでこい」
「……センターへ、ぶっ飛ばす」
バルガスは、俺の言葉を復唱する。
その瞬間、彼の全身から立ち上るオーラが、明らかに変わった。
ただの荒くれ者ではない。ただ一つの獲物だけを見据える、王者の風格。
単純明快な『目標』を与えられたミノタウロスの集中力は、他のどの種族のそれをも凌駕する。
「応っ! 任せとけ、キャプテン!」
バルガスは、ニカッと歯を見せて笑った。
「俺のパワーが最強だってこと、この世界の全員に見せつけてやるぜ!」
闘牛のような荒い息遣いで、バルガスがバッターボックスへと向かう。
その凄まじい気迫に、すでに戦意を喪失していたはずの相手バッテリーの顔に、最後のプライドが浮かんだ。
「なめるなよ、牛野郎……!」
「俺たちだって、ドワーフだ! パワー勝負で、逃げるわけにはいかねえんだよ!」
相手捕手が、マウンドの投手に叫ぶ。
「いくぞ! 俺たちの全力で、こいつをねじ伏せる!」
ゴルダバッテリーは、もはや変化球を投げることをやめた。
彼らの誇りを懸けて、この試合、最速のストレートを投げ込んでくる。
ズバァァン!
初球。
外角高めに、渾身のストレート。
だが、バルガスは微動だにしない。その瞳は、ボールではなく、遥か彼方のバックスクリーンだけを見据えているかのようだ。
「(まだだ……)」
バルガスの心の声が聞こえる。
「(俺が叩き潰すのは、そんな甘い球じゃねえ……!)」
2球目。
さらにコースを厳しく、内角低めへ。
バルガスは、それをまるで虫けらを払うかのように、軽くファウルにした。
追い込まれた。
だが、バルガスに焦りはない。むしろ、その集中力は、さらに、さらに研ぎ澄まされていく。
彼の視界から、味方ベンチの声も、敵の野次も、観客の歓声も、全てが消えていた。
世界には、ピッチャーと、自分と、そしてこれから自分が粉砕すべき『球』しか存在しない。
そして、運命の3球目。
相手投手が、この日一番の雄叫びと共に投げ込んだストレートは、疲れからか、ほんの僅かに、真ん中へと吸い寄せられていった。
――甘い。
バルガスの視界の中で、飛んでくるボールが、まるで止まっているかのように、ハッキリと見えた。
ボールの縫い目、その回転、革の質感まで、全てがスローモーションに見える。
「(――もらったッ!)」
目標を得たバルガスの集中力は、ついに極限を超えた。
彼は、一切の迷いなく、その巨大なバットを、完璧な軌道で振り抜いた。
ゴオオオオオオオオッ!
スタジアム中の空気が、震えた。
それは、バットがボールを捉えた音ではなかった。
まるで、小規模な爆発が起きたかのような、地鳴りのようなインパクト音だった。
打球は。
俺の指示通り、センター方向へ。
だが、その弾道は、俺の、いや、この場にいた誰もの想像を、遥かに超えていた。
それは、ホームランというより、城壁を破壊するために放たれた、巨大な砲弾そのものだった。
白球は、ぐんぐんと天高く舞い上がり、あっという間にバックスクリーンを越え、照明塔の遥か上を通過し、スタジアムの遥か場外の、夜空の闇へと消えていった。
一瞬の、静寂。
スタジアム中の誰もが、今の光景が信じられず、ただ、ボールが消えていった空を見上げていた。
やがて、我に返った誰かから、万雷の拍手と、歓声が沸き起こった。
「す、すげえ……」
「なんだ今の……」
「バックスクリーンを越えて、場外まで飛んだぞ……!」
敵味方の区別なく、誰もがその伝説的な一撃に、ただただ、賞賛を送っていた。
バルガスは、ゆっくりと、ダイヤモンドを一周する。
その顔には、いつもの荒々しさはなく、満足げで、どこか子供のような、純粋な笑顔が浮かんでいた。
俺たちのベンチは、もはや狂喜乱舞のお祭り騒ぎだ。
仲間たちが、ホームインしたバルガスに駆け寄り、その巨体を叩き、揉みくちゃにしている。
俺は、その輪から少し離れた場所で、静かにスコアブックにペンを走らせていた。
「――4番、仕事完了」