第65球 新しい時代の夜明け
奇跡のサヨナラ勝ち。
その熱狂と興奮の大爆発。
俺たちアークスはグラウンドの上でまるで子供のように泣き、笑い、そして互いの健闘を称え合った。
だがその混沌とした歓喜の時間は、やがて訪れた荘厳な静寂によって終わりを告げる。
―――閉会式。
俺たちは泥と汗と、そして嬉し涙に濡れたボロボロのユニフォームのまま、再びホームベースの前に整列した。
反対側には絶対王者であったはずのヴァルム・インペリアルズの選手たちが、まるで石像のように微動だにせず直立している。
その顔には悔しさや怒りといった感情はない。
ただ自分たちが今、歴史上初めて『敗者』としてこの場所に立っているという、その信じがたい事実を受け止めきれずにいるかのようだった。
やがてコーシエンの最高責任者である、白髭のエルフの長老がマイクの前に立った。
彼の厳かな声がスタジアム全体に響き渡る。
「―――これより第72回聖球戯祭典コーシエン、閉会式を執り行う!」
最初に準優勝チームであるヴァルム帝国が表彰される。
主将であるレクスが代表として壇上へと上がった。
彼は準優勝の銀の盾を受け取ると、マイクの前でただ一言だけこう言った。
「―――今日このグラウンドで、我らよりも強き者がいた。ただそれだけだ。勝者を称えよ」
そのあまりにも潔く、そして誇り高い敗者の弁にスタジアムは割れんばかりの拍手に包まれた。
そして。
ついに俺たちの番が来た。
「―――優勝、アークランド・アークス!」
その言葉と同時に。
スタジアムがこの日一番の、地鳴りのような大歓声に包まれた。
俺はキャプテンとしてチームを代表し、壇上へと歩みを進める。
壇上の上には俺たちの勝利を涙ながらに見届けてくれた、アークランドのアリシア王女が立っていた。
彼女はその手にした真紅の、そして黄金に輝く優勝旗を震える手で俺に手渡してくれた。
「……ソラ」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……ありがとう。本当にありがとう」
「……」
「あなたはこの国にただの勝利以上のものを、もたらしてくれました。……希望という名の光を」
「……いいえ、姫様」
俺は笑って言った。
「これは俺一人の力じゃない。ここにいる最高の仲間たちと、そして姫様とアークランドの全ての国民が、信じてくれたから掴めた光です」
俺はそのずしりと重い優勝旗を仲間たちの元へと持ち帰る。
そして全員でその旗を高く高く天へと掲げた。
その瞬間、俺たちの名もなき小国の旗が、スタジアムの最も高いポールへとゆっくりと掲げられていく。
絶対王者の漆黒の旗のさらにその上へと。
俺たちはそのあまりにも美しい光景を、ただ呆然と見上げていた。
◇
閉会式が終わり、俺たちがロッカールームへと引き上げようとしたその時だった。
通路の薄暗い闇の中から一人の男が静かに現れた。
レクスだった。
彼はもうあの神のごとき威圧的なオーラを纏ってはいなかった。
ただ一人の好敵手の前に立つ野球選手としてそこにいた。
「……ソラ」
彼は初めて俺の名を呼んだ。
「……レクスさん」
「……あの最後の一振り。あれは一体なんだったのだ」
彼の竜の瞳には純粋な探求者の光が宿っていた。
「あれはデータにも戦術にもなかった一撃。お前の全てのセオリーを超えていた。あのスイングには何の思考もなかった。ただ純粋な光だけが見えた……」
「……さあな」
俺は笑って答えた。
「俺にも分からない。ただ俺は野球が好きでたまらなくなった。ただそれだけだ」
その俺の答えにレクスは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
そして次の瞬間、彼は初めて心の底から笑った。
それは王者の傲慢な笑みではない。
ただ純粋に自分を超える存在に出会えたことへの喜びと、そして少しの悔しさが入り混じった野球小僧の笑顔だった。
「……そうか。楽しかったか」
「ああ。最高にな」
「……そうか」
彼はゆっくりとそのゴツゴツとした、竜の鱗に覆われた右手を俺に差し出した。
「―――完敗だ、ソラ」
「だが……これほど魂が震えた戦いは生まれて初めてだった」
「俺に野球の本当の『楽しさ』を思い出させてくれたのは、貴様らが初めてだ」
俺はその手を強く握り返した。
絶対王者としてではなく、一人の野球選手として。
俺たちは確かに互いをライバルとして認め合った。
その歴史的な握手は、絶対的な力だけではない新しい時代の到来を世界中に象徴するシーンとして、全ての魔力水晶に映し出されていた。
彼は去り際に俺にだけ聞こえるように呟いた。
「―――次こそは俺が勝つ」
俺もまた不敵に笑い返してやった。
「―――望むところだ」
俺たちのライバル関係はこれからも続いていく。
この世界の頂点で。
◇
ロッカールーム。
俺たちは静かに勝利の余韻に浸っていた。
部屋の中央にはあの黄金に輝く優勝トロフィーが置かれている。
バルガスがその大きな指でそっとそれに触れている。
グランが自分の汗まみれのタオルでその一部を優しく磨いている。
ルーナがその構造を分析するかのように熱心に覗き込んでいる。
誰もがそのあまりにも重い現実を、まだ信じられないでいた。
その時、部屋の魔力水晶が着信を告げた。
映し出されたのはスタンドの一室で酒盛りをしている、俺たちのライバルたちの姿だった。
『うおおおおおっ! やりやがったなこのクソッタレどもがぁ!』
ダインがエールの樽を掲げて叫ぶ。
『見事でした。あなた方の野球は確かに美しかった』
ルシオンが静かに微笑む。
『おかげでたんまりと儲けさせてもらったぜ! ありがとよキャプテン!』
キッドが金貨の入った袋を振って見せる。
イグニスだけは何も言わない。
だがその顔には確かに満足げな色が浮かんでいた。
俺たちはその温かい祝福にただ笑い返すことしかできなかった。
俺はロッカールームの窓から外を見た。
セントラリアの夜が明けようとしていた。
東の空がゆっくりと白んでいく。
「(……終わったんだな)」
俺のこの異世界での、長くて短くて、そして最高に熱かった夏が。
俺はもう一人じゃない。
ここには俺を信じてくれる最高の仲間たちがいる。
そして俺の帰りを待っていてくれる温かい故郷がある。
俺は仲間たちを振り返った。
そして心の底から笑った。
「―――さあ、帰ろうぜ。俺たちのアークランドへ」