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第63球 全てを懸けた一球

9回表、アークスの最後の攻撃。

俺たちの最後の秘儀『アルカヌム』は、絶対王者ヴァルム帝国の完璧だったはずの世界に、確かに亀裂を入れた。

ノーアウト・ランナー一、三塁。

一打同点、長打が出れば逆転の最高の舞台。

だが俺たちの前に立ちはだかる神レクスは、その亀裂を自らの圧倒的な力で強引に封じ込めてきた。


「ストライィィク! バッターアウト!」


カイが三振。

レクスのその瞳にはもう焦りも動揺もない。

ただ全てを破壊し尽くすという純粋な闘争本能だけが、蒼い炎のように燃え盛っている。

彼はもはや投手ではない。

傷つけられた誇りを取り戻すために荒れ狂う、一匹のドラゴンだった。


続くエルマ。

彼女はその全てを懸けてレクスに食らいついた。

だが彼女の美しい技術も今の本能のままに暴れるレクスの力の前に、僅かに及ばなかった。

高く打ち上げてしまった打球は犠牲フライとなり、三塁ランナーのフィンが同点のホームを踏む。

スコアは6-5。

一点差。

だがその代償としてツーアウト。


そしてレクスは次の打者バルガスを敬遠気味に歩かせた。

ツーアウト、ランナー一、二塁。

続くゼノが執念で内野安打を放ち満塁となる。


そして。

運命の舞台が整った。

9回裏、ツーアウト満塁。

スコアは6-5。

一点差。

バッターボックスにはキャプテンの俺。

マウンドには最強の投手レクス。


主人公とラスボス。

俺たちの長かった旅の全てが今、この一打席に集約されていく。



俺はゆっくりとバッターボックスへと歩みを進める。

地鳴りのような大歓声がまるで遠い世界の出来事のように聞こえた。

俺の心は不思議なほど静かだった。


俺はこれまでずっと何かに追われ続けてきた。

転生者としての知識。

親友を壊してしまった過去。

監督としてチームを勝利に導かなければならないという重圧。

だが今この最後の打席で、その全てがどうでもよくなっていた。


ただ楽しい。

心の底から楽しい。

この最高の仲間たちと、この最高の舞台で、この最強の好敵手と野球ができる。

ただそれだけのことがどうしようもなく幸せだった。


俺はマウンドのレクスを見据えた。

彼もまた俺と同じ顔をしていた。

帝国の威信も、王者の誇りも、勝利への義務も。

その全てを捨て去り、ただ目の前の好敵手との魂のぶつかり合いを、心の底から楽しもうとしている一人の野球小僧の顔を。


レクスが笑った。

俺も笑った。

言葉はない。

だが俺たちの魂は確かに会話していた。


「(―――来いよ、ソラ)」

「(―――ああ、行くぜ、レクス)」

「(―――俺たちの全てを懸けて)」



初球。

レクスが吠える。

彼がその竜の魂を全て解き放った渾身の一球。

スコアボードがこの日最速となる201km/hの数字を叩き出した。

ボールは俺の心臓を抉るかのように胸元へと一直線に突き刺さってくる。


だが俺はそのボールに怯まない。

俺はその神の雷に、俺の人間の全ての執念を込めて食らいついた。


―――キィン!


凄まじい衝撃。

バットが悲鳴を上げる。

俺の両腕が砕け散りそうだ。

だが俺は決して押し負けない。

ファウル。


二球目。

レクスが投げてきたのはあの悪魔のようなスライダー。

だが俺には見えていた。

ヤマトが俺に託してくれたあの僅かな光。

彼のリリースポイントがほんの数ミリ、ズレているのが確かに見えた。

俺はその変化の先を読み切りバットを合わせる。

ファウル。


三球目、四球目、五球目……。

俺とレクスの魂の対決は終わらない。

レクスは持てる全ての球種を最高の威力で投げ込んでくる。

俺もまた転生してからの全ての経験、仲間との絆、託された想いをバットに込め、その全てに食らいついていく。


手のひらの皮が破れ、血がバットを赤く染めていく。

全身の筋肉が悲鳴を上げる。

だが俺の集中力は途切れなかった。

むしろ研ぎ澄まされ、その精度を増していく。

俺の世界から全てのノイズが消えていった。


そして。

運命の12球目。

俺もレクスももうお互いの限界が近いことを悟っていた。

これが最後の一球になる。


レクスは笑っていた。

心の底から楽しそうに。

彼はその残された全ての魂をこの最後の一球に注ぎ込んだ。

もはや駆け引きはない。

ただ純粋な力と力の勝負。

ど真ん中への一点の曇りもない魂のストレート。


その白球がマウンドを離れた瞬間。

俺の周りの時間の流れが完全に停止した。


スタジアムの大歓声が消える。

仲間たちの祈るような声援が消える。

俺の世界にはただゆっくりと自分に向かって飛んでくる、その美しい白球だけが存在していた。


脳裏に蘇る。

転生前の日本の夕暮れのグラウンド。

俺のたった一人の親友だったあいつ。

あいつが俺に教えてくれたたった一つの真実。


『―――いいかソラ。最高のバッターはな、最後に何も考えないんだ』

『ただ体が、心が、魂が、最高に気持ちいいと感じるたった一つの完璧な軌道でバットを振るんだ』

『それがお前の理想のスイングだ』


―――そうだ。

これだ。


俺は無意識に笑っていた。

全ての恐怖も後悔もプレッシャーも消え去った。

俺はただの野球が好きな少年に戻っていた。


俺はかつて親友と二人で追い求めた、あの理想のスイングでバットを振り抜いた。

それは俺がこの世界に来て初めて、全てのトラウマを完全に乗り越えた瞬間だった。


―――カッッッッッ!!!!


世界にそれ以外の音はなかった。

バットの芯とボールの芯が完璧に、寸分の狂いもなく一つになった至高のインパクト音。

その心地よい感触だけを俺の掌に残して。


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