第62球 最後の秘儀、アルカヌム
9回表、アークスの最後の攻撃。
スコアは6-4。
あと2点。
この絶望的な点差を、俺たちはこの最後のイニングで覆さなければならない。
マウンドには依然として絶対王者レクスが君臨している。
だがその姿はもはや試合開始の時のような神のごとき威厳に満ちたものではなかった。
彼の竜の瞳には俺たちへの剥き出しの闘争心と、そして僅かな焦りの色が浮かんでいた。
そうだ。
俺たちの執念の連鎖が神を天上の玉座から引きずり下ろし、俺たちと同じ泥のフィールドのただの一人の「野球小僧」へと変えたのだ。
この回の先頭打者はフィン。
彼はこの試合ヒットこそないものの、その魂のプレーで何度もチームを救ってきた。
レクスはもはや小細工なしで剛速球だけを投げ込んでくる。
一球また一球と、フィンの体を、そして心を削り取っていく。
だがフィンは折れない。
彼はファウルで粘り食らいつき、そして8球目。
レクスの僅かにコースが甘くなった200km/hのストレートが、彼のユニフォームを掠めた。
デッドボール。
「よっしゃあああ!」
痛みに顔を歪めながらもフィンはガッツポーズを作り、一塁へと駆け出した。
どんな形でもいい。
塁に出る。
その執念がもぎ取った先頭打者出塁だった。
ノーアウト・ランナー一塁。
俺たちは最高の形で最後の反撃の狼煙を上げた。
◇
「(……どうする)」
俺はベンチで思考を巡らせていた。
「(セオリー通りならここは送りバントだ。ワンアウト・ランナー二塁。だが帝国のあの鉄壁の守備を考えれば、そこから一点を返すことすら至難の業だ)」
「(一点じゃダメなんだ。俺たちは勝たなければならない……!)」
俺はゆっくりと立ち上がった。
そして仲間たちに視線を送る。
バッターボックスにはリコ。
ネクストバッターズサークルにはカイ。
そして三塁のコーチズボックスには、全てを見通すような冷静な瞳でゼノが立っている。
俺は彼らの顔を一人ひとり見つめた。
その瞳に宿る強い光。
そうだ。
俺たちはもうただの寄せ集めのチームじゃない。
幾多の死線を共に乗り越えてきた最高の『チーム』だ。
「(……やれる)」
「(今の俺たちなら、あの狂気の魔術を完璧に成功させられる……!)」
俺は覚悟を決めた。
そしてベンチからこれまで誰も見たことのない、長くそして複雑なサインを送った。
帽子に触れ鼻を擦り、胸を叩き耳を弾く。
それはもはやサインではない。
一つの物語を紡ぐかのような神聖な儀式。
俺たちの最後の秘儀『アルカヌム』の発動の合図だった。
そのサインを見た仲間たちの顔に緊張が走る。
だがそこに恐怖や戸惑いの色はなかった。
あるのはただこの最大で最高の賭けを楽しもうという、挑戦者の獰猛な笑みだけだった。
◇
全てがスローモーションに見えた。
マウンドのレクスは俺たちのその異様な雰囲気に何かを感じ取っていた。
だが彼はもう止まれない。
彼のプライドがこの小僧たちを真正面から力でねじ伏せることだけを望んでいた。
彼がワインドアップモーションに入る。
その瞬間。
俺たちの神殺しのための壮大なシンフォニーが始まった。
まず動いたのはネクストバッターズサークルのカイ。
彼は構えていたバットを「偶然を装って」カラン!と甲高い音を立てて地面に落とした。
帝国の捕手と三塁手の意識がほんのコンマ数秒、その音に引きつけられる。
その隙を突き一塁ランナーのフィンが爆発的なスタートを切った。
盗塁。
そしてバッターボックスのリコ。
彼はその二つの動きに相手バッテリーの意識が完全に向いていることを確認し、バントの構えからヒッティングへと切り替える『バスター』を敢行した。
盗塁、バスター、そしてかく乱。
三つの事象が完全に同時に発動する。
帝国の完璧だったはずの守備組織の思考が、そのあまりにも多すぎる情報量に完全に飽和状態に陥った。
「(……なんだこれは……!?)」
「(盗塁か!? いやバスターか!? どっちだ!?)」
レクスが投げた200km/hの剛速球。
リコはそれに食らいついた。
打球は力のないゴロとなる。
だがその打球が飛んだ先は。
盗塁を警戒し二塁ベースへと動いていた、セカンドのがら空きになった定位置だった。
打球はゆっくりとライト前へと転がっていく。
ヒット。
だがこのプレーはまだ終わらない。
一塁ランナーのフィンは盗塁の勢いのまま二塁ベースを蹴っていた。
そして彼は止まらない。
三塁へと向かっていく。
ライトからの返球。
だがその送球は僅かに乱れていた。
帝国の完璧だったはずの連携が俺たちの混沌の前に初めて崩れたのだ。
フィンは三塁ベースへとヘッドスライディング。
セーフ。
そして打ったリコも一塁に生きる。
ノーアウト・ランナー一、三塁。
たったワンプレーで。
俺たちは同点、そして逆転の最高の舞台を作り上げたのだ。
スタジアムがどよめきに包まれる。
誰もが今目の前で何が起きたのかを理解できずにいた。
帝国の選手たちも同じだった。
彼らは呆然とグラウンドに立ち尽くしている。
自分たちの完璧な世界が、自分たちの理解を超えた何かによって侵食されていくその得体の知れない恐怖に。
マウンドのレクスだけがその全てのカラクリを理解していた。
彼はゆっくりと俺たちのベンチへとその竜の瞳を向けた。
その瞳には初めて焦りでも怒りでもない。
純粋な『畏怖』の色が浮かんでいた。
「(……人間……!)」
「(……一体何者だ……!)」
俺はそんな彼に向かって静かに、そして不敵に笑い返してやった。
反撃の準備は整った。
ここからが俺たちの本当のショータイムだ。