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第61球 王者の焦り

8回表、アークスの攻撃。

スコアは6-4。

俺たちのあの泥臭く、しかし決して折れることのない執念の連鎖によって、絶対王者ヴァルム帝国との絶望的だったはずの点差はたったの二点にまで縮まっていた。

そしてなおもワンアウト・ランナー二塁のチャンスが続く。


スタジアムの空気が変わっていた。

最初は王者の圧倒的な力をただ称賛するだけだった観客たちの声援。

それが今や明らかに俺たち挑戦者へと注がれていた。

「いけえええええ! アークス!」

「奇跡を見せてくれ!」

「神殺しを成し遂げろ!」

その地鳴りのような大歓声はマウンドに立つ絶対王者レクスへと、重く重くのしかかっていた。


その時だった。

帝国のベンチから一人の老将軍のような威厳に満ちた監督がゆっくりと歩み出てきた。

タイムだ。

彼はマウンドへとまっすぐに向かう。

その顔にはこれまで一度も見せたことのない、厳しい、そして僅かな懸念の色が浮かんでいた。


「……レクスよ」

老監督はマウンドで肩で息をする絶対エースに静かに語りかけた。

「……何だ、将軍」

レクスは監督に視線を合わせようともしない。

「少し熱くなりすぎているぞ。冷静になれ。お前の心拍数が乱れている。マナの出力も安定しておらん」

「……俺は冷静だ」

「嘘をつけ」

監督はその言葉を厳しく遮った。

「お前はこの戦いを楽しんでいる。それは王者の戦い方ではない。王者の役目とは勝利を帝国に献上すること。効率的にそして絶対的にだ。そのための感情は不要だ」

「……」

「力だけの勝負をやめろ。お前の多彩な変化球と完璧な頭脳で、あの田舎者たちの心を完全にへし折れ。それがお前の役目のはずだ」


そのあまりにも正論な進言。

だがその言葉にレクスは初めてその冷たい竜の瞳に、野生のそして獰猛な光を宿らせた。

彼は監督をゆっくりと振り返る。


「……将軍」

その声は低い、地を這うような唸り声だった。

「俺はこの十年、ただ一度もその『役目』を違えたことはない。勝利をもたらし栄光を献上してきた。だがな」

レクスの口元が僅かに吊り上がる。

それは歓喜の笑みだった。

「―――これほど楽しいと思ったことは、ただの一度もなかったぞ」


「……なっ!?」

「俺のこの竜の血が震えているのが分かるか? あの人間……あのソラとかいう小僧。あいつが俺の眠っていた闘争本能を呼び覚ましたのだ」


レクスは監督に背を向けた。

「俺の役目は目の前の敵を俺自身のこの力で粉々に砕け散らせることだ。―――そして俺は俺のやり方でそれを成し遂げる」


彼は俺たちがいるアークスのベンチを強く睨みつけた。

監督はそれ以上何も言わず、ただ重いため息をつくと静かにマウンドを去っていった。



その瞬間からレクスは完全に生まれ変わった。

いやあるいはその本性を現したというべきか。

彼はもはやクレバーな絶対王者ではなかった。

ただ己の圧倒的な力を誇示したいだけの一匹の荒ぶるドラゴンだった。


彼はこの回、多彩な変化球を完全に封印した。

投げるのはただひたすらに剛速球。

それはもはや野球の投球ではなかった。

俺たちアークスという挑戦者に対する純粋な暴力の宣言だった。


バッターボックスにはフィン。

レクスは吠える。

―――ズドン!

202km/h。

この日最速。

フィンのバットが空を虚しく切り裂く。

ストライク。


―――ズドン!

再び剛速球。

フィンは必死で食らいつく。

だがその打球は力ないファウルとなる。

彼のバットには大きなヒビが入っていた。


そして三球目。

フィンはその折れかけたバットで、それでも神の雷に立ち向かっていった。

だが彼の人間としての勇気も、その絶対的な力の前に粉々に砕け散った。

空振り三振。


続くリコ。

彼はその小さな体で恐怖と戦っていた。

レクスはそんな彼を嘲笑うかのように剛速球を投げ込み続ける。

リコはなすすべなく三振に倒れた。


この回、俺たちは追加点を奪うことはできなかった。

マウンド上でレクスはまるで勝利の雄叫びのように咆哮を上げている。

スコアの上では彼は俺たちの反撃の勢いを完全に止めたように見えた。


だが。

ベンチに戻ってきた俺たちの顔には不思議と絶望の色はなかった。

俺たちはただ黙ってマウンドで荒々しく肩で息をするレクスの姿を見つめていた。

そうだ。

彼はもはやあの冷静で完璧で底の知れなかった神の姿ではなかった。

彼はただの傷つき、怒り、そして感情を剥き出しにした一匹の獣だった。



「……どう思う、みんな」

俺はベンチで仲間たちに静かに問いかけた。

「今のレクスを」


「……なんか、すげえ怒ってたな」

バルガスが首を傾げる。

「ああ。だがそれだけじゃない。なんだか序盤のあの嫌な感じがしなくなったぜ。ただのすげえ球を投げる、ただのピッチャーになったみてえだ」


「ええ」

エルマも同意する。

「彼のあの完璧だったはずの投球術から知性が消え失せましたわ。あるのはただ純粋な闘争本能だけ。……まるで地方大会で戦ったヴルカニアのイグニスのように」


そうだ。

それだ。

俺は確信を持って笑った。

俺はこの試合の本当の勝機を見出したのだ。


俺は仲間たちを集めた。

そしてその一人ひとりの瞳を見つめて言った。


「―――勝機は来たぞ」

「……え?」

「みんな、あのマウンドに立つレクスをよく見てみろ。あれはもう俺たちが最初に戦った神様じゃない」

「……!」

「あいつは俺たちの泥臭い執念の野球に付き合わされて、ついに天上の玉座から俺たちと同じ泥のグラウンドに降りてきちまったんだ」


俺は続ける。

その声には揺るぎない確信が宿っていた。


「あいつはもう帝国の勝利のために戦っていない。ただ俺たちを、俺を叩き潰したい。その個人的な感情だけで戦っている」

「……」

「あいつは俺たちのゲームに完全にのめり込んじまったんだ」


俺はニヤリと笑った。


「―――あいつはもう皇帝じゃない。ただの野球が大好きで大好きで、そして絶対に負けたくないだけの、一人の野球小僧だ」


その俺の一言で。

仲間たちの心の中にまだ残っていた最後の恐怖が完全に消え去った。

そうだ。

相手が神じゃないのなら。

ただの一人の人間なら。

俺たちが負けるはずがない。


チン、と軽いベルの音が9回表の俺たちの最後の攻撃の開始を告げる。

俺はバッターボックスへと向かう先頭打者の背中を見送った。


「(……間違えたな、レクス)」

俺は心の中で呟いた。

「(お前はお前のまま神様でいれば、俺たちに勝てたかもしれない)」

「(だがお前は俺たちと同じただの人間に、なることを選んじまった)」

「(―――そして人間の戦いってのはな。最後に立っていた方が勝つんだぜ)」


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