第60球 執念の連鎖
俺が折れたバットと血の滲む手でもぎ取ったチーム初ヒット。
それはただの一本のみっともない内野安打だった。
だが絶望の暗闇に沈んでいた俺たちアークスの死んだはずの心臓を再び動かすには、十分すぎる一撃だった。
「キャプテンが……!」
「キャプテンが塁に出たぞ!」
「続け……俺たちも続くんだ!」
ベンチの仲間たちの瞳に再び闘志の光が力強く宿っていくのが分かった。
そうだ。
まだ試合は終わっていない。
俺たちの反撃は今この瞬間から始まる。
そしてその反撃の狼煙を受けて、最初にバッターボックスへと向かったのは、俺たちのもう一人のかく乱者。
神速の獣人カイだった。
マウンドのレクスは明らかに苛立っていた。
彼にとって俺に出されたあの一本は、完璧な神であるはずの自分に付けられた初めての傷。
彼はその屈辱を次の打者で晴らそうとしている。
その全身から放たれるオーラがこれまで以上に禍々しく、そして攻撃的になっているのが分かった。
誰もがカイが地方大会のヤマト戦で見せたような、セオリー無視の混沌とした攻撃を仕掛けると思っていただろう。
レクス自身もそれを警戒していたはずだ。
だが。
俺が一塁ベース上からカイに送ったサインは、その全ての予想を裏切るものだった。
―――『送れ』。
送りバントのサインだ。
「(……にゃるほど)」
カイは俺のサインを見ると、その口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「(キャプテン……あんた、本当に面白いことを考えるニャ……)」
カイはこれまでの奔放な構えを捨て、クラシカルな美しいバントの構えを見せた。
そのあまりにも意外な戦術。
レクスは一瞬その動きに戸惑った。
だが彼はすぐにその思考を切り替える。
「(……フン。小賢しい。だがアウトを一つくれるというのなら、ありがたくもらってやるまでだ)」
レクスが投げ込む200km/hの剛速球。
だがカイはそのボールの勢いを、まるで猫がじゃれるかのように、そのしなやかな手首の動きだけで完璧に殺してみせた。
コン、と乾いた音。
ボールは三塁線の絶妙な位置に転がっていく。
完璧な送りバントだった。
俺はその間に二塁へと進塁する。
ワンアウト・ランナー二塁。
俺たちはたった一つのアウトと引き換えに、この試合で初めて得点圏にランナーを進めたのだ。
そしてこのあまりにも自己犠牲的なカイのプレーが、俺たちアークスの野球を完全に変質させた。
それはもう地方大会で見せた奇策でも、準決勝で見せた個性の爆発でもなかった。
それはチームの勝利というたった一つの目的のために、己の個性を、己のエゴを殺し、仲間を生かすための成熟した『チーム』の野球だった。
◇
続くバッターはエルマ。
彼女もまたこのチームの変化を肌で感じていた。
彼女はもう自分の美しいスイングでヒットを打つことなど考えていない。
彼女の今のたった一つの仕事。
それは粘り食らいつき、神のごときレクスの体力を僅かでも削ること。
そして俺を三塁へと進めること。
レクスが投げる。
エルマはその悪魔のような変化球に食らいつく。
キィン!
ファウル。
また投げる。
エルマはその200km/hの剛速球にその身を投げ出すようにしてカットする。
ファウル。
一球また一球と、レクスの貴重なスタミナが削られていく。
そのあまりにも執拗な粘りの前に、レクスの完璧だったはずの精神に僅かな苛立ちが生まれる。
「(……このエルフの女……!)」
「(……鬱陶しい……!)」
そしてこの打席の12球目。
レクスが投じたスライダーがほんの僅かに甘く入った。
その一瞬の隙をエルマは見逃さなかった。
彼女はそのボールを流し打つ。
打球は力のない平凡なセカンドゴロ。
だがその間に俺は悠々と三塁へと進塁していた。
ツーアウト・ランナー三塁。
そして。
バッターボックスには俺たちの不動の4番、バルガスが向かう。
◇
「(……4番……)」
バルガスはバッターボックスで静かに闘志を燃やしていた。
「(俺はこのチームの4番だ)」
「(だが今の俺の仕事はホームランを打つことじゃない)」
「(―――この三塁にいる、俺たちのボロボロのキャプテンをホームに還すことだ!)」
彼はこれまでの自分のプライドを完全に捨てていた。
彼はバットを短く持ち、その巨大な体を小さくかがめた。
チームバッティングに徹する構えだ。
その意外な構えにレクスはさらに苛立ちを募らせる。
「(……小賢しい……!)」
「(このミノタウロスまで俺から逃げるというのか!)」
レクスはその有り余る力でバルガスをねじ伏せようとした。
だがその力みこそが彼から完璧なコントロールを奪っていた。
彼が投げた渾身のストレートは真ん中高めの絶好の打ち頃のコースへと吸い寄せられていった。
バルガスはその失投を見逃さなかった。
だが彼はフルスイングをしない。
彼はそのボールをコンパクトに、そして鋭く叩いた。
打球はゴロとなってがら空きになっていた一、二塁間を抜けていく。
ライト前タイムリーヒット。
俺はゆっくりとホームベースを踏んだ。
スコアは6-1。
俺たちはついにこの神のごとき男から一点を奪い返したのだ。
スタジアムがこの日一番の地鳴りのような大歓声に包まれる。
帝国の選手たちに、そして絶対王者レクスに初めて本物の「焦り」の色が浮かび始めていた。
◇
その一点を皮切りに。
俺たちの執念の連鎖が始まった。
7回、8回と俺たちはじわじわと、しかし確実に点差を詰めていく。
ゼノが絶妙なセーフティバントでチャンスを作る。
フィンが折れたバットで執念のタイムリーを放つ。
リコがその小さな体で神速の盗塁を決める。
派手なプレーは一つもない。
だがその一つ一つの泥臭いプレーが鎖のように繋がり、絶対王者を確実に追い詰めていった。
スコアは6-4。
ついに2点差。
マウンド上のレクスはもはやいつもの冷静な王者の姿ではなかった。
彼は肩で息をし、その瞳には焦りとそして屈辱の色が浮かんでいる。
俺はベンチでその姿を冷静に観察していた。
そして隣にいるルーナに告げた。
「……来たな」
「……はい」
ルーナがヤマトから託された黒い水晶のデータを指差す。
「―――来ます。彼の唯一の弱点が」
俺は静かに頷いた。
俺たちがこの二つのイニングをかけてじわじわと仕掛けてきた、長い長い罠。
その最後の仕上げの時が来たのだ。