第59球 反撃の狼煙
5回の裏が終わった。
スコアボードには6-0という絶望的な数字が刻まれている。
俺たちアークスは未だノーヒット。
ベンチの空気はもはや死んでいた。
仲間たちの瞳から光が消え、心が折れる音が確かに聞こえた。
チン、と軽いベルの音が6回表の攻撃の開始を告げる。
『6回表、アークランド・アークスの攻撃は、先頭バッター、4番、キャッチャー、キャプテンのソラ』
アナウンサーのどこか憐れみを含んだ声がスタジアムに響き渡る。
俺はゆっくりと立ち上がった。
そしてバットを手に取る。
仲間たちが俺の背中を見ている。
その視線にはもう期待の色はない。
ただ「どうせ無駄だ」という冷たい諦めだけがあった。
(……これで終わりか?)
俺は自問自答する。
(俺の異世界での挑戦は。俺たちの奇跡の夏は。こんな何もできずにただ蹂躙されて終わるのか?)
脳裏にこれまでの戦いが蘇る。
グランの誇りを懸けた一球。
バルガスの理屈なき一撃。
エルマの涙と微笑み。
ゼノの初めて見せた本気。
リコの勇気ある奇襲。
フィンの魂の守備。
カイの自由な疾走。
そしてルーナのチームを救ったあの歌声。
一人ひとりの顔が浮かんで消える。
不格好でバラバラでどうしようもない、俺の最高の仲間たち。
「(……冗談じゃない)」
俺の心の奥底で。
消えかけていたはずの最後の種火が再び燃え上がった。
そうだ。
俺はもう一人じゃない。
俺のこの背中にはあいつらの想いが乗っている。
恐怖が消えた。
プレッシャーが消えた。
失うものは何もない。
俺はゆっくりと振り返った。
そして絶望に沈む仲間たちに向かって、これまでの人生で最高の不敵な笑みを浮かべてみせた。
「悪いな、お前ら。待たせたな」
「……キャプテン……?」
「―――ここからだぜ」
俺はそれだけを言うとバッターボックスへと向かった。
その足取りは不思議なほど軽かった。
◇
俺はバッターボックスでゆっくりとバットを構える。
目の前には神のごとき絶対王者レクス。
だが今の俺には彼のその圧倒的なオーラが少しも怖くなかった。
むしろ心地いい。
この世界の頂点に立つ男と今、俺はたった一人で対峙している。
なんという贅沢。
なんという幸福。
マウンドのレクスはそんな俺の姿を見て、初めてその完璧なポーカーフェイスを僅かに歪ませた。
「(……なんだ?)」
彼の心の声が聞こえるようだった。
「(こいつ、なぜ笑っている?)」
「(チームは壊れている。試合も壊れている。勝利の可能性はゼロだ。なのに、なぜこいつは絶望していない? まるでこれから最高の遊びが始まるとでも言うような、その目はなんだ?)」
レクスのその完璧だったはずの世界に、初めて俺という名の理解不能な『バグ』が生まれた瞬間だった。
彼はその苛立ちを振り払うかのように腕を振るった。
初球。
俺のプライドを完全にへし折るための、ど真ん中への199km/hの剛速球。
だが今の俺には見えていた。
その完璧なはずのボールの軌道が。
「(―――勝てない)」
「(ああ、そうだ。まともに打ち合って勝てる相手じゃない)」
「(だが……!)」
俺はバットを短く持った。
「(―――負けてやるつもりもねえんだよ!)」
俺はヒットを狙わない。
ただひたすらにその神の雷に食らいつく。
日本の、俺のいた世界で非力な打者が強大な投手に立ち向かうための、唯一の、そして最も泥臭い戦術。
カット打法だ。
―――キィン!
凄まじい衝撃。
腕が痺れ砕け散りそうだ。
だが俺は歯を食いしばり耐える。
打球はファウルとなってバックネットに突き刺さる。
ストライク。
だが俺は触った。
この化け物のボールに確かに触ったんだ。
二球目。
レクスは苛立ちを隠さず、今度はあの悪魔のようなスライダーを投げ込んできた。
だが俺はヤマトから託されたデータで、その僅かな軌道の変化を予測していた。
俺はバットを投げ出すようにしてそのボールに当てる。
ファウル。
ツーストライク。
俺は追い込まれた。
「(……この人間が……!)」
レクスの苛立ちがオーラとなって伝わってくる。
「(なぜ諦めない? なぜ折れない? その無意味な抵抗に何の意味がある!)」
意味ならあるさ。
俺はマスクの下で笑った。
俺がこうして粘れば粘るほど。
お前のその神のメッキが剥がれていく。
そして何よりも。
死んでいたはずの俺の仲間たちの心に、もう一度火を灯すことができるんだ。
「(俺は狼煙になる!)」
三球目、四球目、五球目……。
俺はただひたすらに粘った。
手のひらの皮が破れ血が滲み始める。
全身の骨が軋む。
だが俺は倒れない。
絶対に倒れてやるものか。
そして運命の10球目。
ついにレクスがキレた。
彼のプライドがこのしつこい虫けらを許さなかった。
彼は咆哮した。
そしてこの日最速となる201km/hの剛速球を、俺の体を壊すつもりで投げ込んできた。
俺はそれを待っていた。
俺はそのあまりにも速すぎる光の筋に、自分の全てをぶつける。
バットがボールに当たった瞬間。
―――バキイイイイイイイイイッ!
俺の愛用のバットがその神の威力に耐えきれず、粉々に砕け散った。
だが同時に。
ボールもまたその威力を完全に殺されていた。
打球は力なくピッチャーとホームベースのちょうど中間地点に、ぽとりと転がった。
帝国の完璧なはずの捕手が慌ててボールを拾い上げる。
俺は折れたバットの柄を投げ捨て一塁へと走っていた。
人生で一番速いスタートだった。
捕手が一塁へと送球する。
間に合わない。
俺は一塁ベースへとその泥だらけの体を投げ出した。
ヘッドスライディング。
ボールがファーストミットに収まるのと、俺の指先がベースに触れるのはほとんど同時だった。
一瞬の静寂。
そして。
「―――セーーーーーフ!」
審判の絶叫が響き渡った。
チーム初ヒット。
◇
その瞬間、アークスの死んでいたはずのベンチが爆発した。
「うおおおおおおおおおおっ!」
「ヒットだ! ヒットが出たぞ!」
「キャプテンが! あの化け物からヒットを打ちやがった!」
それはただの一本のみっともない内野安打だった。
だが絶望の暗闇のどん底を彷徨っていた俺たちにとって。
その一本のヒットは何よりも明るく、そして温かい希望の光だった。
仲間たちの死んでいた瞳に、再び闘志の光が力強く宿っていくのが分かった。
俺は一塁ベースの上で土まみれのまま立ち上がった。
そして血の滲む右手を高く高く突き上げた。
反撃の狼煙は上がった。