第57球 絶対王者の咆哮
―――プレイボール!
審判の厳かなコールが天を衝くような大歓声に掻き消された。
コーシエン本戦、決勝戦。
俺たちアークランド・アークス対、絶対王者ヴァルム・インペリアルズの最後の戦いが今、始まった。
俺はキャッチャーマスクを被り、ホームベースの後ろに深く腰を落とす。
心臓がまるで警鐘のように激しく胸を打っていた。
目の前のマウンドに立つあの男。
竜人族レクス。
彼がそこにただ立っている。
それだけでスタジアム全体の空気が彼の絶対的な存在感に支配されていくのが分かった。
「(……これが世界の頂点か)」
彼はゆっくりとウォーミングアップの最後の数球を投げ込む。
そのフォームには一切の無駄がない。
まるで何百年もの時間をかけて最適化された完璧な破壊のための芸術品。
彼が腕を振るうたびに俺のミットが悲鳴を上げる。
ズドン!という腹の底に響く重い重い衝撃。
まだ本気ではない。
だがそれでも俺の手のひらはもうジンジンと痺れていた。
「(……イグニスとはまるで違う)」
「(ヴルカニアのイグニスの剛速球が制御不能な荒れ狂う『暴力』なら、こいつの球は全てを貫き消滅させる、冷たく研ぎ澄まされた『権威』そのものだ……!)」
そしてバッターボックスには俺たちの、一番小さな切り込み隊長リコが向かう。
彼の顔は緊張で真っ青だった。
無理もない。
彼の目の前に立っているのはもはや野球選手ではない。
神話の中にしか存在しないはずの伝説の竜なのだから。
◇
1回表、アークスの攻撃。
リコは震える足でバッターボックスに立つ。
俺は彼を落ち着かせるように声をかけた。
「リコ! 楽しんでこい!」
マウンド上のレクスはそんな俺たちをまるで取るに足らない虫けらでも見るかのように、冷たい瞳で見下ろしていた。
彼はゆっくりとワインドアップモーションに入る。
そのあまりにも滑らかな動きに俺は一瞬見惚れてしまった。
そして彼がその竜の鱗に覆われたしなやかな腕を振り抜いた瞬間。
―――ボールが消えた。
俺の動体視力が全く追いつかない。
白い残像だけが網膜に焼き付く。
そして次の瞬間。
―――ズッッッドオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
俺のミットが後ろに弾かれた。
凄まじい轟音と衝撃。
まるで隕石でも受け止めたかのようだ。
俺の左腕全体が一瞬で感覚を失った。
スコアボードに信じがたい数字が表示される。
―――200km/h。
「……あ……」
リコはバットを振ることすらできず、その場にへたり込んでいた。
彼にはボールが見えなかったのだ。
「(……これがレクス……!)」
「(これが神の雷……!)」
二球目。
レクスは今度はゆっくりとしたフォームで腕を振るった。
変化球だ。
だがそのボールは俺の知るどんな変化球とも違っていた。
ボールはホームベースの手前で、まるで瞬間移動でもしたかのように直角に曲がり落ちた。
リコのバットがボールの遥か上を虚しく切り裂く。
空振り。
そして三球目。
再び剛速球。
リコはもう恐怖で完全に体が固まっていた。
バットは動かない。
ボールがミットに突き刺さる。
三振。
続く二番のカイ。
彼はその獣の超感覚でレクスの神の領域に挑もうとした。
だがレクスはそんな彼の思考を完全に読んでいた。
彼は200km/hの剛速球と160km/hのチェンジアップを、全く同じフォームで投げ分けてくる。
カイの獣としての本能が完全にそのタイミングを狂わされた。
彼もまたなすすべなく三振に倒れる。
「……うそだろニャ……」
ベンチに戻ってくる彼の顔には獲物として完璧に弄ばれた屈辱の色が浮かんでいた。
そして三番のエルマ。
彼女はそのエルフとしての誇りと完璧な技術で、この絶対的な『力』に立ち向かおうとした。
彼女はレクスの三球目の201km/hの剛速球に食らいついた。
その美しいスイングは確かにボールを捉えた。
―――バキイイイイイイイイイン!!!
だが次の瞬間。
彼女が握りしめていた最高級の木材で作られたはずのバットが、そのあまりにも凄まじい衝撃に耐えきれず、まるでガラス細工のように粉々に砕け散った。
ボールは力なくピッチャーの前に転がりアウト。
スリーアウト、チェンジ。
俺たちアークスはたった9球で完璧に、そして容赦なく沈黙させられた。
◇
1回裏、ヴァルム帝国の攻撃。
俺たちは完全にその気迫に呑まれていた。
マウンドに立つグランの顔も青ざめている。
帝国のㄧ番、二番打者にいとも簡単にヒットを許してしまう。
ノーアウト・ランナー一、二塁。
そしてバッターボックスにはあの神のごとき男が、まるで玉座にでも着くかのように悠々と入ってきた。
―――4番、ピッチャー、レクス。
スタジアムの全ての観客が総立ちになる。
彼ら彼女らがこれから目撃するであろう、王の凱旋を祝福するために。
俺はヤマトから託されたあの黒い水晶のデータを思い出す。
「(……内角高めの速球。そしてその対角線となる外角低めへのチェンジアップ)」
「(これしかない……!)」
俺はグランにサインを送る。
グランも頷く。
初球。
内角高め、胸元を抉る渾身のストレート。
完璧なボールだった。
だがレクスはそれをまるで取るに足らないとでも言うように静かに見送った。
「ストライク!」
二球目。
俺は勝負を賭けた。
外角低め、ボールゾーンからストライクゾーンへと食い込んでくるバックドアのスライダー。
グランも俺の意図を汲み最後の力を振り絞り、その最高のボールを投げ込んできた。
だが。
レクスはその完璧なはずのボールを、まるで最初からそこに来ると分かっていたかのように待っていた。
彼はその長身を滑らかに回転させる。
それはもはや野球のスイングではなかった。
竜がその巨大な尾で全てを薙ぎ払うかのような、美しくそして絶対的な破壊の一撃だった。
―――ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!!
スタジアム全体が震えた。
凄まじい破壊音。
打球は空を切り裂く白いミサイルとなって、一直線にバックスクリーンへと向かっていく。
そして。
―――ドッッッッッガアアアアアアアアアアアアン!!!
センターの巨大なスコアボードに突き刺さり、その魔法水晶のスクリーンを粉々に砕け散らせた。
スリーランホームラン。
スコアは3-0。
帝国の選手たちは騒がない。
ただ当たり前のようにダイヤモンドを一周する自分たちの王を静かに出迎えるだけ。
それが彼らにとっての日常なのだ。
グランはマウンドで呆然と立ち尽くしていた。
彼は自分の最高のボールをいとも簡単に粉砕され、そのドワーフとしての誇りごと打ち砕かれてしまったのだ。
俺はマスクの下で血の味がするほど強く唇を噛みしめていた。
強いとは思っていた。
化け物だとは、思っていた。
だがこれほどとは。
これほどまでに次元が違うとは。
ベンチに戻る仲間たちの瞳から光が消えていくのが分かった。
スタジアムはもはや帝国の勝利を祝う祝祭の会場と化していた。
「(……これは試合じゃない)」
俺は思った。
「(……これはただの公開処刑だ)」