第56球 神々の戦場
コーシエン本戦、決勝戦の朝。
その日の都セントラリアはまるで世界中の全ての熱がこの一点に集まったかのような、異常なまでの興奮に包まれていた。
俺たちアークスが宿舎で最後の準備をしている間も、窓の外からは絶え間なく続く地鳴りのような歓声が聞こえてくる。
「……すげえな」
リコが窓の外を眺めながらゴクリと唾を飲む。
「今日この都にいる全員が俺たちの試合を見てるんじゃないか……?」
「当たり前だ、チビ助」
バルガスがその巨大な腕でリコの頭をわしわしと撫でる。
「なんせあの無敵のヴァルム帝国に、俺たちみたいな、どこの馬の骨とも分からねえ田舎チームが挑むんだからな。歴史に残る大一番だぜ」
その言葉にはいつものようなただの自信だけでなく、これから始まる途方もない戦いへの確かな覚悟が宿っていた。
もうこのチームに浮かれた者は一人もいない。
昨夜の最後のミーティング。
俺たちがこれから戦う相手の本当の恐ろしさを知ったあの夜。
そしてそれでもなお俺たちが共に戦うことを誓ったあの決断の夜。
あの一夜を越えて俺たちアークスはまた一つ新しいチームへと生まれ変わっていた。
その証拠に今日のロッカールームはこれまでにないほど静かで、そして澄み切った空気に満ちていた。
グランはブルペンでただ黙々と壁に向かってボールを投げ込んでいる。その一球一球に彼のドワーフとしての全ての魂が込められているかのようだ。
カイはロッカールームの隅で猫のようにしなやかなストレッチを繰り返している。その動きには一切の無駄も迷いもない。
エルマは静かに目を閉じ精神を統一している。彼女の周りだけまるで静寂の森のような気高い空気が流れていた。
誰もが自分のやるべきことを完璧に理解していた。
「……ソラさん」
俺が最後の作戦の確認をしているとルーナがそっと声をかけてきた。
彼女は一枚の羊皮紙を俺に差し出す。
そこには俺たちの故郷アークランドの現在の様子が魔法で描き出されていた。
広場という広場。通りという通り。その全てが俺たちの戦いを見守る民衆で埋め尽くされている。
その中心でアリシア王女が俺たちの小さなアークランドの旗を強く握りしめ、祈るようにスクリーンを見つめていた。
そしてその隣には俺が最初に野球の楽しさを教えたあの子供たちの姿もあった。
「……ああ。見てるか、みんな」
俺はその光景に胸が熱くなるのを感じていた。
俺たちはもうただの寄せ集めのチームじゃない。
一つの国の希望を背負っているんだ。
「……ソラ」
フィンが俺の肩を叩いた。
「……時間だ」
俺は頷いた。
そして立ち上がり最高の仲間たちに最後の言葉をかけた。
「……行くぞ」
◇
俺たちがグラウンドへと足を踏み入れた瞬間。
―――ゴオオオオオオオオオオッ!
鼓膜が破れるかのような凄まじい大歓声が俺たちを飲み込んだ。
超満員のコーシエン・セントラル。
その熱狂の全てが今この決勝戦という一点に注がれている。
俺たちは自分たちの守備位置へと散っていく。
そして目の前で繰り広げられる光景に息をのんだ。
反対側のフィールドで絶対王者ヴァルム帝国がウォーミングアップを始めたのだ。
それはもはや「ウォーミングアップ」ではなかった。
純粋な『絶望』の見本市だった。
キャッチャーが二塁へと送球する。
放たれたボールは糸を引くようなレーザービームとなって、全く山なりになることなくセカンドベースの上を通過していく。
その送球音だけでスタジアムがどよめく。
内野手たちのノック。
彼らの動きはまるで舞踏のようだ。一糸乱れぬ完璧な連携。エラーなどする気配すらない。
そして圧巻はバッティング練習だった。
帝国の屈強な打者たちが代わる代わるバッターボックスに入り、その規格外のパワーを見せつけてくる。
―――ゴォン!
―――ゴォン!
大砲が撃ち鳴らされるかのような破壊音がスタジアムに響き渡る。
打球は面白いように次々とスタンドの上段へと突き刺さっていった。
俺たちが地方大会で、あれほど苦しめられたヴルカニアの暴力野球がまるで子供のお遊びのように見えてしまう。
そしてその化け物軍団の中心に王はいた。
レクス。
彼はまだバットすら握っていない。
ただグラウンドの隅で静かにストレッチをしているだけ。
だがスタジアム中の全ての視線が彼一人に吸い寄せられていた。
やがて彼はおもむろに一本の黒いバットを手に取った。
そして彼はこともなげに、外野スタンドの遥か上段にある貴賓席の一つを指差した。
そして軽くバットを振るった。
放たれた打球は寸分の狂いもなく、彼が指差したそのたった一つの座席に吸い込まれるように突き刺さった。
スタジアムがこの日一番のどよめきと歓声に包まれる。
予告ホームラン。
それは俺たちに向けられたあまりにも傲慢で、そして絶対的な宣戦布告だった。
ウォーミングアップが終わり、俺たちがベンチへと引き上げるその途中だった。
レクスが俺たちの前をゆっくりと横切った。
そして俺の目の前で足を止める。
「……存分に足掻くがいい」
彼は俺にそう告げた。
「神々の戦場の余興としては、まあ楽しませてもらったぞ、田舎の勇者たちよ」
その絶対的な王者のオーラに、俺たちの仲間たちが完全に呑まれていた。
顔は青ざめ、その体は緊張でガチガチに固まっている。
◇
試合開始直前。
俺は最後の円陣を組んだ。
仲間たちの顔は硬い。
無理もない。
あの神々の遊びを見せつけられた後だ。
勝てるなどと本気で思っている者は一人もいないだろう。
俺はそんな彼らの顔を見て思わず噴き出してしまった。
「……ぷっ、あはははは!」
俺の突然の笑い声に仲間たちが呆気にとられた顔で俺を見る。
「きゃ、キャプテン……? どうしたんだ急に……」
「いや悪い悪い」
俺は笑いながら言った。
「見たかお前ら。今の化け物たちのお披露目会」
「……」
「あのトカゲ野郎、指差したところにホームラン打ちやがったぞ。漫画かよ、ったく。完全にイカれてやがる」
俺のそのあまりにも場違いな軽口。
それにつられて仲間たちの強張っていた顔がほんの少しだけ緩んだ。
「ああ、そうだ。あいつらは化け物だ。神様だ」
俺は続ける。
「客観的なデータの上じゃ俺たちがあいつらに勝てる確率は、限りなくゼロに近いだろうな」
「……」
「だがな」
俺はニヤリと笑った。
「―――だからどうした?」
俺は仲間たちの一人ひとりの瞳を見つめた。
「俺たちは挑戦者だ。失うものなんて最初から何一つない」
「だが俺たちのこの背中に背負っているものは山ほどある。この国の希望。俺たちが倒してきたライバルたちの想い。そして俺たちが共に流してきた血と汗と涙」
「だったら俺たちがやるべきことはたった一つだ」
俺は円陣の中心に自分の右手を突き出した。
「―――楽しもうぜ。俺たちの野球を」
「……!」
「あのスカした神様たちの度肝を抜くような、俺たちだけのメチャクチャで泥臭くて、最高に面白い野球を、この世界中のど真ん中で見せつけてやろうぜ!」
その俺の一言で。
仲間たちの瞳に再び、あの野生のそして自由な光が戻ってきた。
恐怖は消え去り、その顔には最強の敵を前にした挑戦者だけが持つ、獰猛な笑みが浮かんでいた。
一人また一人と、俺の手に仲間たちのゴツゴツとした温かい手が重ねられていく。
「「「―――アークス、ファイ、オーーーーーーッ!」」」
俺たちの最後の戦いが今、始まろうとしていた。