第53球 理屈なき一撃
ノーアウト・ランナー一、三塁。
一打出れば同点、あるいは逆転サヨナラという絶好のチャンス。
カイがその獣の本能でこじ開けたたった一つの亀裂。それがヤマト・サムライズという完璧だったはずの『鉄壁の盾』に、致命的なまでの動揺を広げていた。
マウンドにヤマトの主将コジロウが静かに歩み寄る。
彼は動揺を隠せない投手のムラサメと内野陣を集め、何かを低い声で告げている。
「(……落ち着け。まだ慌てる時間じゃない。相手は混沌。我らは秩序。秩序は決して混沌に飲まれはしない)」
コジロウのそんな鋼のような意志が、こちらまで伝わってくるようだ。
だがその完璧なはずの秩序に、今最大の『混沌』が立ち向かおうとしていた。
「―――うおおおおおおおおおおっ!」
地鳴りのような雄叫び。
俺たちの不動の4番。
最終兵器バルガスが、その大木のようなバットをまるで小枝のように軽々と肩に担ぎ、バッターボックスへと向かっていく。
彼が一步地面を踏みしめるごとに、グラウンドがビリビリと震えるような錯覚。
その全身から立ち上る純粋な破壊のオーラに、ヤマトの選手たちの顔に初めて本物の『恐怖』の色が浮かんでいた。
「(……来たな、バルガス)」
俺はベンチの最前列で祈るように、その巨大な背中を見つめていた。
俺が彼に与えた指示はただ一つ。
『―――考えるな。来た球をぶっ飛ばせ』。
そうだ。
それでいい。
お前のその純粋すぎるほどの魂が、ヤマトの完璧すぎる理性を粉々に打ち砕いてくれることを、俺は信じている。
「(頼んだぜ、俺たちの4番)」
◇
バッターボックスに立ったバルガス。
彼はもはや周りの何もかもを見てはいなかった。
仲間たちの声援も敵のプレッシャーもスタジアムの大歓声も、彼の耳には届いていない。
彼のそのミノタウロスの瞳に映っているのは、ただマウンドに立つ投手と、そしてこれから自分が粉砕すべき白球だけ。
「(……キャプテンは言った)」
「(俺の出番だ、と)」
「(俺の舞台だ、と)」
「(カイが走った。リコが繋いだ。みんながこの最高の舞台を作ってくれた)」
「(だから俺は応えるだけだ)」
「(―――考えない)」
「(―――ただ、ぶっ飛ばす!)」
ヤマトのバッテリーはセオリー通り、併殺を狙える外角中心の配球を組み立てていた。
パワーだけのこの脳筋ミノタウロスなら、必ず外のボール球に手を出して凡打に倒れる。
その完璧なはずのデータと理論に基づいて。
初球。
外角低めに鋭く食い込むスライダー。
これまでのどんな強打者も思わず手を出してしまったであろう、絶妙な一球。
だがバルガスは動かない。
彼はただそのボールがミットに収まるのを静かに見送っただけだった。
「ボール!」
「(……なに?)」
ヤマトの捕手がマスクの下で僅かに目を見開く。
「(なぜ振らない……? この獣のような男がこれほどの好機に、なぜこれほど冷静なんだ……?)」
二球目。
今度は外角のストライクゾーンにストレート。
バルガスは振った。
だがそのスイングはいつもような大振りではない。
彼はバットを短く持ちボールに逆らわず叩きつけた。
キィン!
凄まじい打球がファウルラインの遥か外側へと飛んでいく。
「(……くそっ! なんてパワーだ!)」
「(だが狙いは変わらない。徹底して外! ゴロを打たせる!)」
三球目、四球目、五球目。
ヤマトバッテリーは執拗に外角を攻め続ける。
バルガスもまたそのボールにただ食らいついていく。
ファウル、ファウル、ファウル。
彼のそのあまりにも単純で、しかし揺るぎない集中の前に、マウンドの投手ムラサメの完璧だったはずの精神がじわじわと削られていった。
そして運命の六球目。
追い詰められたヤマトの捕手は最後の賭けに出た。
「(こいつは外を待っている……!)」
「(ならばそのさらに外! 絶対に手の届かないボールゾーンのスライダーで空振りを奪う!)」
◇
ムラサメが最後の力を振り絞り、その腕を振るった。
放たれたボールは捕手の狙い通り、外角のストライクゾーンからさらにボール一個分外へと鋭く滑り落ちていく。
理屈の上では絶対にバットが届くはずのない完璧な一球。
勝利を確信したウイニングショット。
だが。
その完璧な『理屈』を。
バルガスの純粋な『本能』が粉々に打ち砕いた。
「―――ウオオオオオオオオオオオオオッ!」
理屈では届かない。
だが彼の魂が「叩き潰せ」と叫んでいた。
バルガスの巨大な肉体が常識ではありえないほどにしなる。
彼の後ろ足が地面から浮き上がり、体勢が完全に崩れる。
それでも彼はその規格外のリーチとパワーで強引にバットを、その逃げていくボールへと叩きつけた。
ゴッッッ!!!
世界から音が消えた。
バットがボールを捉えた、その鈍い破壊音だけを残して。
それはもはや「スイング」ではなかった。
魂そのものを叩きつける「爆発」だった。
打球は高く上がらない。
低く鋭く、そして凄まじい回転をしながら、ヤマトの守備シフトの完全に逆を突くライト方向へと飛んでいった。
ヤマトの完璧だったはずの守備陣が、初めてその打球に反応できない。
打球は一塁手のグラブを弾き飛ばし、がら空きの右中間を転々と転がっていく。
三塁からカイが風のようにホームイン。
同点。
そして一塁からリコがその小さな体で必死に必死に腕を振って走っている。
ヤマトの完璧な中継プレーがボールをホームへと送球する。
クロスプレー。
間に合うか――!?
リコはホームベースへとその身を投げ出した。
その泥だらけの指先が捕手のタッチよりもコンマ数秒早く、ホームベースに触れた。
「セーーーーーーーーーフ!」
審判の絶叫。
逆転。
サヨナラ。
その瞬間、スタジアムは割れんばかりの地鳴りのような大歓声に包まれた。
俺たちアークスはベンチからなだれ込み、二塁ベース上で呆然と立ち尽くす俺たちの最高の4番の元へと駆け寄った。
ヤマトの選手たちはその場に立ち尽くしていた。
彼らの完璧だったはずの『盾』がたった一つの理屈なき一撃の前に、粉々に砕け散ってしまったのだから。
ショートのコジロウだけが静かに、俺たちの歓喜の輪と、そしてベンチで静かに拳を握りしめる俺の姿を見つめていた。
その瞳には悔しさと、そしてそれを遥かに上回る純粋な賞賛の色が浮かんでいた。
「(……見事だった)」
「(『個性』の剣が我らが『統率』の盾を打ち砕いたか……)」
制御不能な個性の爆発が、完璧な組織を打ち破った歴史的な瞬間だった。