第52球 フィールドのかく乱者(トリックスター)
8回裏、アークスの攻撃。
俺が監督としての権限を完全に放棄したその直後。
グラウンドの空気が明らかに変わった。
これまで俺たちをまるで巨大な一枚岩のように押し潰してきた、ヤマト・サムライズの完璧な『秩序』。
その静かで揺るぎない世界に、俺たちの『混沌』が今、解き放たれようとしていた。
この回の先頭打者はカイ。
彼はバッターボックスへと向かう途中、わざとらしく大きなあくびをしてみせた。
そしてショートを守る好敵手コジロウに向かって、獰猛な、そして楽しそうな三日月のような笑みを浮かべてみせた。
「……さてと。そろそろ本気で遊んでやるとしますかニャ」
コジロウのあの静かな湖面のようだった表情が、初めて僅かに揺らいだ。
「(……なんだ……?)」
「(こいつらの空気が変わった……?)」
「(これはもはやチームの気ではない。……統率を失ったただの獣の群れのそれだ……)」
マウンドに立つヤマトの投手ムラサメもまた、その異様な変化に戸惑っていた。
カイのそのあまりにも自然体な、やる気のないようにも見える、しかしどこか危険なオーラ。
これまでのデータが全く役に立たない。
初球。
ムラサメはセオリー通り、外角低めに完璧なストレートを投げ込んだ。
だがカイはそれに全く反応しない。
ただそのボールの軌道を、首を傾げながら面白そうに見つめているだけ。
二球目。
今度は内角を抉るスライダー。
その瞬間、カイは突如としてバントの構えを見せた。
ヤマトの完璧に統率された内野陣がそれに即座に反応する。
だがカイはボールがホームベースを通過するその寸前に、すっとバットを引いた。
ボール。
そして三球目。
相手バッテリーの思考が完全に乱れたその隙を、彼は見逃さなかった。
彼はバントの構えから一転、バットを短くそして鋭く叩きつけるように振り抜いた。
チョップ打法。
打球は力のないただのゴロ。
三塁手の正面。
誰もがアウトだと思った。
だが。
カイはバットがボールに当たったその瞬間にはもう一塁へと向かって爆発的に加速していた。
その最初の数歩はもはや人間の走り方ではなかった。
まるで四足で地面を蹴るかのような、低くそして獰猛な獣のそれだった。
ヤマトの三塁手の送球がコンマ数秒遅れる。
カイの足が僅かに勝った。
「セーフ!」
完璧な『盾』に初めて刻まれた、小さな小さな亀裂。
そしてその亀裂はここから急速に広がっていくことになる。
◇
一塁ベース上でカイは、まるでこれから最高の遊びが始まるとでも言いたげに、その尻尾をゆらりゆらりと揺らし始めた。
そして彼は常識では考えられないほど大きなリードを取った。
一塁と二塁のほとんど中間地点。
彼はランナーのそれではない。
獲物を前にした飢えた黒豹の構えで、マウンドのムラサメを挑発している。
「(……なんだ、あいつは……!)」
ムラサメの冷静だったはずの思考が、目の前のそのあまりにも予測不能な混沌の塊によって掻き乱されていく。
彼はバッターに集中できない。
意識の9割以上が一塁ランナーのカイに釘付けにされていた。
「(……走るのか? 走らないのか?)」
「(あのリード……牽制すればアウトにできるか?)」
「(いや、だが、あいつのあの獣のような反射神経……!)」
ムラサメはたまらず一塁へと鋭い牽制球を投げ込んだ。
だがカイはまるでそのボールが来ることを知っていたかのように、嘲笑うかのような笑みを浮かべ、ひらりと一塁へと戻っていた。
その動きには一切の無駄も焦りもない。
「……にゃはは。遅い、遅いニャ」
その挑発的な一言がついにムラサメの冷静さを完全に打ち破った。
彼は何度も何度も一塁へ牽制を繰り返す。
だがその全てがカイの神速の帰塁の前に無意味に終わる。
スタジアムがざわめき始める。
完璧だったはずのヤマトの野球が、たった一人の猫の獣人によって完全にそのリズムを崩されているのだ。
マウンドにコジロウが駆け寄る。
「……ムラサメ。落ち着け。惑わされるな。あの化け猫のことは忘れろ。打者に集中するのだ」
「……は、はい……!」
だが一度生まれた心の乱れはそう簡単には消せない。
ムラサメが次の打者リコへ投球モーションに入ったその瞬間だった。
カイがまた動いた。
だが彼は二塁へと走らない。
一塁と二塁の中間で、まるでダンスでも踊るかのように前へ後ろへ横へと、予測不能なステップを踏み始めたのだ。
「なっ!?」
そのあまりにも常識から逸脱した動き。
ヤマトの完璧だったはずの内野陣が完全にパニックに陥った。
セカンドもショートもピッチャーもキャッチャーも。
全員の意識が打者ではなく、そのフィールドを自由に舞い踊る一匹の化け猫に完全に釘付けにされていた。
◇
そして。
その一瞬の隙をリコは見逃さなかった。
ピッチャーのムラサメの集中力が完全にカイへと向いている。
彼が投げたボールはもはやただの棒球だった。
リコはその甘いボールをコンパクトに振り抜いた。
カン!
打球は力のない平凡なセカンドゴロ。
本来のヤマトの守備力ならば楽々併殺になっていたであろう当たり。
だが。
ヤマトのセカンドはその時、カイの幻影を追っていた。
彼の意識が、打球への反応がコンマ数秒遅れた。
彼は慌ててグラブを差し出す。
だがその完璧だったはずの彼の守備の形は、焦りによって僅かに崩れていた。
―――ポロリ。
ボールが無情にも彼のグラブの土手に当たり、大きく弾んで外野へと転がっていった。
エラー。
信じられないというどよめきがスタジアムを包む。
あの鉄壁を誇ったヤマト・サムライズがこの大会で初めて犯した、致命的なエラーだった。
その間にカイは二塁を蹴り三塁へと到達していた。
リコも一塁ベース上で小さくガッツポーズをする。
ノーアウト・ランナー一、三塁。
たった一つの平凡なゴロが、俺たちに絶好のチャンスをもたらした。
ショートのコジロウが呆然とその光景を見つめている。
そして彼はゆっくりと俺たちのベンチへとその視線を向けた。
俺は彼に向かって静かに、そして不敵に笑い返してやった。
「(……どうだ、コジロウ殿)」
「(これが俺たちの野球だ)」
「(お前たちの完璧な『盾』に初めて刻まれた亀裂の味は、どんな味がする?)」
試合の流れが今、確かに音を立てて俺たちの方へと傾き始めていた。