第51球 キャプテンの賭け
8回表、ヤマト・サムライズの攻撃。
スコアは依然として0-1。
そのたった一点差がもはや決して越えることのできない絶対的な壁のように、俺たちアークスに重く重くのしかかっていた。
マウンドに立つフィンはすでに投球数が百球を超えていた。
彼の特別な能力を持たないただの人間の体は、もうとっくに限界のはずだ。
だが彼は決して弱音を吐かなかった。
一点を守り切る。そのあまりにも重い責任を、その細い腕一本で背負い続けていた。
対するヤマトの攻撃はどこまでも冷徹で、そして無慈悲だった。
彼らはもはや追加点を奪いに来てすらいない。
ただひたすらにファウルで粘り、フィンの気力と体力をじわじわと、だが確実に削り取っていく。
それはまるで巨大な蟒蛇が獲物をゆっくりと締め上げていくかのような、息の詰まる攻防だった。
「(……くそっ)」
俺はキャッチャーマスクの下で唇を噛みしめる。
「(このままじゃフィンが壊れる……!)」
ツーアウト、ランナー無し。
ようやくあと一人までこぎつけた。
だがその最後の打者が最も厄介だった。
主将コジロウ。
彼はその武士のような静かな佇まいでバッターボックスに立っていた。
フィンが最後の力を振り絞り、内角へと食い込むスライダーを投げ込む。
完璧な一球だった。
だがコジロウはそのボールを、まるで居合の達人のように最短距離で鋭く振り抜いた。
打球は痛烈なライナーとなって三遊間を襲う。
「(……抜かれた!)」
俺がそう思った瞬間だった。
「―――にゃあああああああっ!」
獣のような叫び声。
ショートのカイがその人間離れした反射神経で、地面スレスレの打球に飛びついた。
ボールは彼のグラブの網の先に辛うじて引っかかっていた。
ファインプレー。
スリーアウト、チェンジ。
俺たちはなんとかこの回も無失点で切り抜けた。
だがベンチに戻ってきた仲間たちの顔にもう光は残っていなかった。
「はぁ……はぁ……」
「……きつい……」
「……あいつら、本当に人間かよ……」
誰もがその完璧すぎる野球の前に心を折られかけていた。
◇
8回裏、アークスの攻撃。
残された攻撃のチャンスはあと二回。
俺はベンチの一番後ろで頭を抱えていた。
「(……どうすればいい)」
「(俺の戦術は全て通じない。俺の知識は全て吸収され無力化される)」
脳裏にあの禁断の秘技『アルカヌム』の設計図が浮かんで消える。
「(……あれを使えば……)」
「(あの完璧な組織に予測不能な混沌を叩きつけることができれば……あるいは……)」
だが俺はすぐにその考えを振り払った。
机の引き出しにしまい込んだあの設計図。
あの重い錠の音。
「(……ダメだ)」
「(あんな危険な賭けに、今の疲弊しきったこいつらを巻き込むわけにはいかない)」
「(俺はもう二度と仲間を壊さないと誓ったんだ……!)」
だがではどうする?
このまま何もできずに為すすべなく負けるのか?
それは俺を信じてここまでついてきてくれた仲間たちへの最大の裏切りじゃないのか?
俺はベンチに座る仲間たちの顔を見渡した。
疲れ果て、うなだれ、それでもまだ心のどこかで奇跡を信じようとしている最高の馬鹿野郎たち。
バルガスが悔しそうに自分の拳を見つめている。
カイが珍しく真剣な顔でグラウンドを睨みつけている。
エルマが、ゼノが、グランが、フィンが、リコが……。
「(……混沌……)」
「(……個性……)」
その時だった。
俺の頭の中でまるで天啓のように一つの考えが閃いた。
「(そうだ……俺は間違っていた……!)」
「(俺はこいつらのそのどうしようもない『個性』を俺の『戦術』という檻の中に閉じ込めようとしていた。ヤマトの『統率』に対抗するために、俺たちの不完全な『統率』で戦おうとしていた。……だから勝てないんだ!)」
「(組織を打ち破る力。それは組織よりも優れた組織じゃない。組織の常識の外側から叩きつけられる純粋な予測不能な『混沌』そのものなんだ!)」
そうだ。
答えは最初からここにあったじゃないか。
俺の目の前に。
俺はゆっくりと立ち上がった。
その顔にはこれまでの苦悩の色ではなく、全てを振り切った狂気じみた笑みが浮かんでいた。
◇
「―――円陣だ!」
8回裏、俺たちの攻撃が始まるその直前。
俺のその唐突な声に、選手たちが驚いたように俺の周りに集まってきた。
俺はその仲間たちの一人ひとりの顔を見つめて言った。
その声は静かだったが、この試合の全てをひっくり返すほどの熱を帯びていた。
「……聞け、お前ら」
「……」
「この7イニング俺たちは俺の考えた俺の野球で戦ってきた。そして結果はこのザマだ。……俺は負けた。俺の野球は奴らの完璧な野球の前に完全に負けたんだ」
「……キャプテン……」
俺は仲間たちに深く頭を下げた。
「……悪かった」
「……!」
「だからここから俺は監督を放棄する」
その衝撃的な一言に仲間たちが息をのむ。
「サインはもう一切出さない。俺はただのお前たちの力を信じる一人のキャッチャーに戻る。だからお前たちももう俺のサインを待つな」
「……!」
「お前たちの本能を信じろ。お前たちの血を信じろ。お前たちがこのチームに選ばれたそのたった一つの理由を信じろ」
「―――好きにやれ」
俺は顔を上げた。
そしてこの最高のイカれた仲間たちに、最後の『解放』の言葉を告げた。
「カイ!」
「……ニャあ」
「もうベースコーチを見るな。俺のサインを盗むな。お前のその猫の魂が望むままにフィールドを駆け回れ。奴らの完璧な庭をお前の混沌で滅茶苦茶に掻き乱せ!」
「……ニャは」
カイの口元が三日月のように吊り上がった。
「バルガス!」
「……おう!」
「もう考えるな。思考はお前の力を鈍らせるだけだ。ただ来た球を見ろ。そしてその骨の髄まで叩き潰せ。お前の仕事はそれだけだ!」
「……うおおおおおっ!」
バルガスの瞳に純粋な破壊の光が宿った。
「エルマ! ゼノ! フィン! リコ! グラン!」
俺は全員の名を叫んだ。
「もう俺はお前たちを縛らない! お前たちのその理不尽なまでの個性を今この場で完全に解き放て!」
「―――そして見せてやろうぜ。俺たちアークスの本当の野球というものを!」
俺の狂気に満ちたその賭け。
選手たちは最初は戸惑っていた。
だが俺の瞳に宿る狂おしいほどの仲間への『信頼』の色を見て、彼らの表情が一人、また一人と変わっていった。
それは恐怖からの解放であり本能への回帰。
彼らの瞳に野生の、そして自由な光が戻ってきた。
円陣が解かれる。
この回の先頭打者カイがバッターボックスへと向かっていく。
そのしなやかな足取りはもはや野球選手のものではなかった。
獲物を前にした飢えた黒豹のそれだった。
彼はショートを守るコジロウに向かって、獰猛なそして楽しそうな笑みを浮かべてみせた。
コジロウのあの静かな湖面のようだった表情が、初めて僅かに揺らいだ。
「(……なんだ……?)」
「(こいつらの空気が変わった……?)」
「(これはもはやチームの気ではない。……獣の群れのそれだ……)」
俺はベンチに戻りその異様な光景を見つめていた。
心臓が早鐘のように鳴っている。
俺は賽を投げた。
完璧な『秩序』の世界に制御不能な『混沌』という劇薬を。
この賭けが俺たちを天国へと導くのか、あるいは地獄へと叩き落とすのか。
その答えはもう誰にも分からない。