第5球 勝利への再定義(リビルド)
練習試合での歴史的な大惨敗から、数日が過ぎた。
アークスの雰囲気は、最悪の一言に尽きた。グラウンドには活気がなく、選手たちはどこか俺を避けるように、ただ黙々と、身の入らない個人練習を繰り返している。信頼関係なんて言葉は、このチームには存在しない。あるのは、敗北によって生まれた不信感と、気まずい沈黙だけだ。
俺は、あの日以来、ほとんどの時間を自分の部屋に引きこもっていた。
薄暗い部屋の壁という壁に、俺は大量の羊皮紙を貼り付けていた。
一枚一枚に書き殴られているのは、俺の唯一の武器であるはずだった、前世の『野球知識』と、この世界に来てからルーナが集めてくれた『異種族のデータ』。
「……ダメだ。どうやっても、繋がらない」
俺は頭を抱え、床に座り込んだ。
壁に貼られた二つの世界のデータが、互いに「お前は間違っている」と主張しあっているように見えた。
『ドワーフの筋力と骨密度。これを地球のパワーヒッターの成長曲線に当てはめると……エラー。数値が規格外すぎて、予測モデルが崩壊する』
『エルフの動体視力と反射速度。彼らにとって、150km/hのストレートは、俺の世界の100km/h程度の体感速度にしかならない。変化球のキレという概念が、そもそも通用しない』
『猫族の獣人の瞬発力。一塁までの到達タイムは、どんな理論値をも凌駕する。盗塁阻止のセオリータイムを、根底から覆している』
俺が知る野球は、人間という種の、ある程度予測可能な身体能力の範囲内で、極限まで最適化されたスポーツだった。
だが、この世界は違う。
前提となる物理法則からして、俺の常識とはズレている。
(俺は、異世界の言語を、無理やり日本語の文法で読もうとしていたようなもんだ。翻訳しようとして、完全に失敗した……)
親友の肩を壊した、あの日の記憶が蘇る。
良かれと思ってやったことが、全てを壊した。
俺の知識は、この世界では、もはや何の役にも立たないガラクタなのかもしれない。
コン、コン。
不意に、部屋の扉が控えめにノックされた。
「……誰だ」
「あの……ルーナです。ソラさん、食事、とってますか?」
扉の向こうから、心配そうな声が聞こえる。
俺は立ち上がる気力もなく、「放っておいてくれ」とだけ返した。
「ですが……!」
「いいから、あっちへ行ってろ!」
俺が苛立ちをぶつけると、扉の向こうは一度、静かになった。
だが、数秒後、ルーナは諦めずに、ドア越しに語りかけてきた。
「ソラさん。ソラさんの知識は、決して間違ってなんかいません。ガラクタなんかじゃ、ありません」
「……何が分かるんだ、あんたに」
「はい。私には、ソラさんの世界の野球のことは分かりません。でも……この世界の理なら、少しだけ分かります」
その言葉に、俺は顔を上げた。
「ソラさんは、この世界の住人を、『野球選手』というコマとして見ているように感じます。でも、彼らはコマである前に、ドワーフであり、ミノタウロスであり、エルフなのです。それぞれに、何千年もの歴史の中で培われた、誇り高い文化と、気質があるんです」
ルーナの声は、静かだが、不思議な説得力を持っていた。
「例えば、グランさん。彼は頑固です。でもそれは、ドワーフという種族が、決して自分の仕事に妥協を許さず、一本の鎚に魂を込めてきた、職人の誇りの現れなんです。だから彼らは、一度“親方”と認めた相手には、絶対に裏切らない忠誠を誓います」
「バルガスさんは、単純で、すぐに怒ります。でもそれは、ミノタウロスという種族が、駆け引きを嫌い、常に真正面から己の力を示すことを美徳としてきた、純粋さの証なんです。だから彼らは、与えられた単純明快な“目標”に対しては、驚異的なまでの集中力を発揮するんです」
「エルマさんは、理屈っぽくて、プライドが高いです。でもそれは、エルフという種族が、悠久の時の中で、常に“美”とは何かを追求してきた求道者だからです。彼女たちは非効率なことを嫌うのではなく、美しくないことを、何よりも嫌うのです」
ルーナの言葉が、俺の凝り固まった思考の壁に、静かに、だが確実に、ヒビを入れていく。
(誇り……気質……美学……)
俺は、そんなこと、考えたこともなかった。
ただ、自分の知る『野球』というテンプレートに、無理やり彼らを当てはめようとしていただけだ。
彼らの身体能力だけでなく、その心や、魂の在り方を、全く理解しようとしていなかった。
(そうか……俺は、間違っていたんだ)
壁に貼られた、二つの世界のデータ。
それらが、俺の頭の中で、初めて繋がり始める。
(グランを、俺の言うことを聞く投手として『抑えよう』とするな。彼の誇りを満たすような、彼にしかできない“仕事”を与え、ドワーフが認める“親方”になるんだ)
(バルガスに、複雑なチームバッティングを『教える』な。彼が最も輝ける、単純明快な“舞台”を用意してやればいい)
(エルマに、退屈な反復練習を『強いる』な。彼女の美学が満たされるような、華麗で芸術的なプレーを、彼女自身に『考えさせれば』いいんだ)
それは、俺の知識をこの世界に当てはめる『翻訳』ではなかった。
この世界の理を土台にして、俺の知識を、全く新しい形に作り変える――。
『再定義』という発想だった。
「――っはは、ははははは!」
俺は、突然笑い出した。
暗闇のどん底で、一筋の光を見つけたような、そんな笑いだった。
俺は勢いよく立ち上がると、壁に貼られた古いメモを次々と引き剥がした。
そして、新しい羊皮紙を広げ、インクが飛び散るのも構わずに、猛烈な勢いでペンを走らせ始めた。
それは、もはや俺の知る『野球』の戦術書ではなかった。
ドワーフの頑固さを逆手に取った配球術。
ミノタウロスの単純さを一点に集中させる打順。
エルフの美学を刺激する守備隊形。
各種族の『理不尽』な能力と、その『魂の在り方』を掛け合わせた、この世界でしかありえない、全く新しい戦術プラン。
ドアの向こうで、俺の突然の笑い声に驚いているルーナの気配がする。
俺は、書き上げたばかりの設計図を手に、勢いよく扉を開けた。
「ルーナ! あんたは天才だ!」
「ひゃっ!? そ、ソラさん!?」
驚く彼女の手を取り、俺は言う。
「礼を言う。あんたのおかげで、霧が晴れた」
俺の顔にはもう、絶望の色はなかった。
あるのは、これから始まる途方もない挑戦に対する、楽しさと、興奮だけだ。
「さあ、行くぞ! 選手が待ってる!」
俺は、勝利への新しい設計図を握りしめ、選手たちが待つミーティングルームへと向かった。
「――諸君、今日から俺たちの本当の野球を始める」