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第48球 見えない傷跡

―――ゲームセット!


審判の最後のコールが響き渡った瞬間。

俺たちアークスのベンチは確かに歓喜に包まれた。

だがその歓声は、これまでの勝利の後のような天を衝くような爆発的なものではなかった。

まるで長い長い嵐がようやく過ぎ去った後のような、疲労と安堵が入り混じったか細い産声のような歓声だった。


グラウンドからロッカールームへと続く薄暗い通路。

俺たちは誰からともなく互いの肩を貸し合い、壁に寄りかかりながらゆっくりと歩いていた。

勝利チームの凱旋行進とは到底思えない。

それはまるで激しい戦争を生き延びた、傷だらけの兵士たちの帰路そのものだった。


ロッカールームの扉を開けても、そこにはいつものような馬鹿騒ぎはなかった。

あるのは重く息苦しい沈黙だけ。

選手たちは皆口数少なく、まるで魂が抜けてしまったかのようにぐったりと椅子に沈み込んでいた。


「……」

カイはベンチに横になり目を閉じている。だが眠っているのではない。その猫のような耳はぴくぴくと絶えず周囲の音を拾い続けている。まるでまだあの不気味な詠唱が聞こえてくるのを警戒しているかのようだ。


グランは自慢のグラブをただ無心で磨き続けている。だがその手は時折ぴたりと止まり、どこか虚空の一点を見つめている。彼の単純で力強い魂が、目に見えない敵との不毛な戦いで深く消耗しているのが分かった。


バルガスは珍しく一言も喋らない。ただ黙って天井を見上げているだけだ。彼の純粋な闘争本能が、力で戦うことのできなかったこの試合への不完全燃焼を訴えている。


そしてエルマとゼノ。

「……後味が悪いですわね」

エルマが吐き捨てるように呟く。

「ええ全くだ。まるで質の悪い毒を無理やり飲まされたかのようだ。魂に不快なおりが溜まっていくのを感じる」

ゼノもその美しい顔を不機嫌そうに歪めていた。


そうだ。

俺たちは勝った。

だが同時に何か大切なものを削り取られてしまったような、そんな嫌な感覚があった。

物理的なダメージはない。

だが見えない魔法による精神干渉と、絶え間ないルールの濫用による揺さぶり。

その精神的な消耗は俺たちの想像を遥かに超えていた。


「(……まずいな)」

俺はその光景に強い危機感を覚えていた。

「(これは想像以上に重症だ)」


ルーナが心配そうな顔で俺の隣に来た。

彼女の手には選手のバイタルを測定する魔力水晶が握られている。

「ソラさん……。みんなのバイオ・マナの数値が安定しません。特に精神的な安定を示すアストラル値が危険なレベルまで低下しています。このままでは……」

「……ああ。次の戦いは無理だろうな」


短期決戦のトーナメントにおいて、精神的な疲弊は致命傷になりかねない。

俺たちの次の相手は準決勝。

相手が誰であろうと、この状態の俺たちでは勝ち目はないだろう。


(どうすればいい……)

(どうすればこの見えない傷を癒すことができるんだ……)


答えが見つからないまま、時間だけが無情に過ぎていった。



その夜。

俺は宿舎の自室で一人、机の上の、一枚の羊皮紙と向き合っていた。

そこに描かれているのは、あの合宿で俺たちが血の滲むような努力の末に編み出した禁断の秘技。

『アルカヌム』の設計図だ。


準決勝の相手は東方連合『ヤマト・サムライズ』。

鉄壁の守備を誇る完璧な組織野球。

あの一枚岩の守備を打ち破るには、おそらくこのアルカヌムを使うしか道はない。

そう、頭では分かっていた。


だが。

俺の心はその決断を頑なに拒絶していた。


「(……無理だ)」

俺はそのあまりにも複雑な設計図を睨みつけながら、深く深く葛藤していた。


「(このプレーは選手たちに極度の集中力と完璧な連携を要求する)」

「(今の疲弊しきったあいつらの状態で、果たしてこれを実行できるのか?)」

「(もし誰か一人の判断がコンマ数秒遅れたら?)」

「(もし誰か一人の集中力が途切れてしまったら?)」


脳裏に最悪の光景が浮かぶ。

サインミスからベース上でカイとリコが激しく衝突する。

無理なプレーが誰かの選手生命を脅かすような大怪我に繋がってしまう。


―――そしてその光景は、俺の心の奥底に今もなお深く突き刺さっているあの日の記憶と重なった。



―――『いいかソラ。最高のバッターはな、最後に何も考えないんだ』

―――『ただ体が、心が、魂が、最高に気持ちいいと感じるたった一つの完璧な軌道でバットを振るんだ』


転生前の日本の夕暮れのグラウンド。

俺のたった一人の親友だったあいつ。

あいつも俺と同じで、特別な力はないただの野球好きの人間だった。

だがあいつには誰にも負けない美しい投球フォームがあった。

俺はその才能に惚れ込み、そして嫉妬した。

俺は自分の未熟な知識で、あいつをもっと完璧なピッチャーにできると信じていた。

俺はあいつに無理なフォームの改造を強いた。

あいつは俺を信じて文句一つ言わずに来る日も来る日も投げ続けた。


そして最後の夏の大会。

あいつの肩から鈍い乾いた音が響いた。

俺は忘れない。

マウンドに崩れ落ちたあいつの苦悶の表情。

そして俺に向けられた深い深い絶望と裏切りの色を浮かべたあの瞳を。


―――『お前のせいだ』


幻聴が聞こえる。

俺は自分の野心のために仲間を壊したんだ。



「……う……ぁ……」


俺は現実へと引き戻された。

呼吸が浅い。全身が冷たい汗で濡れている。

俺はアルカヌムの設計図を強く握りしめていた。

その紙がくしゃくしゃになっている。


「(……できない)」

「(俺にはもうできない)」

「(勝利のために仲間を危険に晒すなんてこと。俺にはもう二度とできないんだ……!)」


俺はゆっくりと立ち上がった。

そして俺たちの最後の希望であったはずのその設計図を、近くにあった小さな木箱の中に仕舞い込んだ。

カチリ、と冷たい錠の音が静かな部屋に響き渡る。

俺はその箱をベッドの下の一番奥へと押し込んだ。

まるで自分の過去の過ちを封印するかのように。


俺は窓の外を見上げた。

コーシエンの巨大なドームが二つの月の光を浴びて静かに佇んでいる。

俺の表情にはもう絶望の色はなかった。

だがそこにあるのは、諦めとも覚悟ともつかない重く、そして深い静かな決意だけだった。


「(……アルカヌムは使わない)」

「(別の道を探す。どんなに泥臭くても、どんなに勝率が低くても、誰も傷つけないで勝てる道を)」


俺はそう誓った。

だがその時の俺はまだ知らなかった。

その重すぎる決断が俺たちをさらなる苦境へと追い込むことになるということを。


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