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第46球 ルールの錬金術師

奇跡のアンサンブルが魔法の呪詛を打ち破った。

ルーナの歌声とスタンドのライバルたちの魂の応援によって、俺たちアークスはようやくあの忌まわしい精神干渉マインド・デバフの魔法から解放されたのだ。

体に力が戻ってくる。

頭の靄が晴れ、思考がクリアになる。

何より心の奥底から、再び闘志が燃え上がってくるのを感じた。


「……すげえ」

カイが自分の軽くなった体を信じられないという顔で見つめている。

「マネ子ちゃん(ルーナ)の歌、なんか、すっげえ力が湧いてくるニャ……!」

「ああ。体が熱い。これならあのトカゲ野郎どもの剛速球だって打ち返せそうだぜ!」

バルガスもその巨大な拳を力強く握りしめた。


スコアはまだ1-0。

だが試合の流れは明らかに変わりつつあった。

見えない攻撃はもうない。

ここからが本当の野球の勝負だ。


「(……そう思っていたんだがな)」

相手ベンチで老賢者パラケルススが、初めてその人の好さそうな笑みを消した。

彼は歌い続けるルーナと、俺たちの応援団を驚きと、そしてほんの少しの賞賛が入り混じった複雑な表情で見つめている。

そして彼は、まるでチェス盤の次の駒を進めるかのように、淡々と、しかし冷徹な声で選手たちに新たな指示を与えた。


「―――面白い。実に面白い。まさかあのデバフを力技で中和してくるとはな」

「ですが監督! このままでは……!」

「うむ。ならば次の手だ」

「―――これより我々は、『野球』を放棄する」

「……は?」

「我々がこれから行うのは、『ルール』という名の、迷宮での鬼ごっこだ」


その不気味な宣言と共に。

俺たちアークスは、魔法よりも遥かに厄介で陰湿な、第二の『見えない攻撃』に苛まれることになる。


                  ◇


試合が再開されると、マギノグラムの野球は明らかにその姿を変えた。

彼らはもはやヒットを打とうとも、点を取ろうともしていないように見えた。

彼らが徹底して行ってきたこと。

それはただ一つ。

―――試合の流れを完全に破壊することだった。


アークスの攻撃。

俺がバッターボックスに入る。

だが相手投手はなかなかボールを投げてこない。

彼は何度も何度もプレート板を外し、ロジンバッグを触り、サインに首を振る。

明らかな遅延行為。


「(……なんだ? 何を狙ってやがる……?)」

俺が苛立ち始めた、その時だった。

相手ベンチからパラケルススのおだやかな、しかしスタジアム中に響き渡るような声が飛んだ。


「―――球審殿! 物言いです!」

「……なんだね、マギノグラムの監督」

「今、相手打者のソラ殿ですが。彼がバットを構えるその角度。コーシエンの公式ルールブック、第6条2項、『打者の構えに関する紳士協定』に抵触している可能性がありますな」

「……なんだと?」

球審も俺も呆気にとられる。

そんなルール聞いたこともない。


「確かにルールブックには明文化されておりません。ですがその精神において、投手の集中力を著しく削ぐような挑発的な構えは禁じられているはず。いかがかな?」

パラケルススはにこやかに、しかし決して目を逸らさずに球審に問いかける。

球審は困惑しながらも、そのあまりにもマニアックな抗議を無視することはできない。

試合が中断される。


「……なんだよ、あれ」

「意味が分かんねえ……」

俺たちのベンチから戸惑いの声が上がる。

結局その抗議は数分後、「問題なし」として棄却された。

だがその時にはもう、俺の集中力は完全に削がれていた。

俺はその打席、力ない内野ゴロに倒れた。


それが始まりだった。

マギノグラムはそれ以降、アークスの選手が打席に入るたびに、些細な、しかしもっともらしいクレームをつけ始めた。


「球審殿! 今のバルガス殿のスイング。あまりにも風圧が強すぎる! これはもはや威嚇行為に当たるのでは?」

「……むう」

「球審殿! カイ殿のあの尻尾の動き! 捕手のサインを盗み見ている可能性がありますな!」

「……にゃんだと!?」


一つ一つは馬鹿馬鹿しい言い掛かりだ。

だが審判団はその都度試合を中断し、対応せざるを得ない。

プレーの流れは完全に断ち切られ、俺たちの攻撃のリズムは面白いように崩れていった。

守備についている時も同じだった。

彼らは打席で何度も何度もタイムを要求する。

俺たちの守備位置の僅かなズレを指摘してくる。

グラウンドに小さなゴミが落ちていると言って、試合を中断させる。


「(……くそっ!)」

「(こいつら……野球をする気がない……!)」

「(俺たちの集中力そのものを削ぎ落とすことが目的なんだ……!)」


相手のその陰湿な土俵に引きずり込まれ、俺たちの心には野球ができないという純粋なストレスがどんどん溜まっていく。

チームの雰囲気は再び最悪になっていった。


                  ◇


試合は終盤の7回。

スコアはまだ1-0のまま。

だが試合内容では俺たちは完全に負けていた。

選手たちの顔には疲労と、そしてそれ以上の尽きることのない苛立ちが浮かんでいる。


「もう我慢ならん!」

グランがマウンドで吠える。

「親方! 次あいつらがまたちょこまかと時間を稼いできたら、ワシのこの剛速球で黙らせてやっても構わんか!」

「……ダメだ、グラン。挑発に乗るな。それこそが相手の思う壺だ」


だが俺自身ももう限界に近かった。

このじわじわと魂を削られていくような不毛な戦い。

どうすればこの膠着状態を打ち破れるのか。

答えが見つからない。


その時だった。

俺はふと気づいた。

俺たちはいつの間にか、相手のことばかりを気にしていた。

相手の奇策にどう対応するか。

相手の抗議にどう耐えるか。

そうだ。俺たちは完全に相手の土俵の上で戦わされていたんだ。


「(……違う)」

俺は悟った。

「(相手を見るから惑わされるんだ……!)」


俺はタイムを取り、マウンドへと駆け寄った。

そして苛立ちを隠せない仲間たちの顔を一人ひとり見つめて言った。

その声は不思議なほど穏やかだった。


「―――もう相手を見るな」

「……は?」

「奇策も抗議も魔法も全部無視しろ。奴らは存在しないものと思え」

「きゃ、キャプテン……!?」

「俺たちがやることはたった一つだ」

俺は自分のキャッチャーミットをパン、と強く叩いた。

「―――ボールを捕って投げて打つ。ただそれだけだ」


俺のそのあまりにもシンプルな言葉。

だがその言葉は混乱の極みにあった仲間たちの心を静かに、そして確かに鎮めていった。

そうだ。

俺たちがやっているのは、聖球戯ベースボールというただそれだけのスポーツなのだ。


その回から俺たちアークスは生まれ変わった。

相手が何を言おうと何をしようと、俺たちは一切反応しない。

ただ黙々と自分たちのやるべきプレーを完璧に繰り返すだけ。

そのあまりにも泰然とした俺たちの態度に、逆にマギノグラムの選手たちが動揺し始めているのが分かった。

そしてついに試合の終わりが見えてきた。


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