第44球 不協和音(ディソナンス)
準々決勝、対魔法王国マギノグラム・アルケミスト戦。
プレイボールのコールが響き渡り、試合は驚くほど穏やかに始まった。
俺たちアークスの先発はエースのグラン。ラピュータ戦での激闘の疲れはまだ残っているが、彼の瞳には地方大会で見せたあの自信が戻っていた。
対するマギノグラムの選手たちはやはり噂通りだった。
一人ひとりの身体能力は決して高くない。スイングは鋭くなく、足も速くない。まるで学者や研究者が余暇で野球を楽しんでいるかのようだ。
グランの力が戻りつつある投球の前に、彼らの打線は面白いように凡打を繰り返す。
「っしゃあ! 三者凡退!」
「いいぞ、グランさん!」
1回、2回と試合は完璧なアークスペースで進んでいった。
俺たちの攻撃でもヒットこそ出るものの、相手の守備は派手さはないがひどく堅実だった。アウトにすべき打球を確実にアウトにしてくる。
スコアは0-0。
ベンチには一種の安心感が漂い始めていた。
「なんだ、大したことねえじゃねえか、あいつら!」
バルガスがヘルメットを脱ぎながら豪快に笑う。
「ラピュータの奴らの方がよっぽど気味が悪かったぜ。こいつらはただの野球が上手い、ただの人間みてえなもんだ!」
「ええ。基本に忠実ですが、それ以上の脅威は感じませんわね。このままいけば我々の勝利は揺るがないでしょう」
エルマも冷静に分析する。
だが俺だけはその楽観的なムードの中で、一人得体の知れない嫌な予感を覚えていた。
「(……静かすぎる)」
「(あの不気味な老賢者パラケルススが、このまま黙って負けるはずがない。奴は必ず何かを仕掛けてくる。一体いつ、どこで……?)」
そしてその時は唐突に訪れた。
3回表、マギノグラムの攻撃が始まるその直前だった。
三塁側に陣取るマギノグラムの応援団。ローブを深く被ったまるでカルト教団のような一団が、すっと一斉に立ち上がった。
そして彼らは楽器も使わず、手拍子もせず、ただ低い単調な詠唱のような歌を合唱し始めたのだ。
―――アアアアア……オオオオオ……。
メロディというほどのものはない。
ただ不気味なドローン音がスタジアム全体にじわじわと浸透していく。
その瞬間、グラウンドの空気が明らかに変わった。
◇
その回の先頭打者が打ったのは平凡なショートへのゴロだった。
遊撃手のカイがいつものように猫のようなしなやかな動きで、その打球へと駆け寄る。
誰もが簡単なワンナウトだと思った。
カイ本人ですらそう思っていたはずだ。
だが。
「……にゃ?」
カイのグラブがボールを弾いた。
まるでボールが一瞬だけ、彼の手元でするりと滑ったかのように。
ボールは無情にも外野へと転がっていく。
記録はエラー。
「……な、なんだ……?」
カイは自分のグラブを信じられないという顔で見つめている。
「今、俺の体……一瞬だけ思ったように動かなかったニャ……」
その小さな綻びをきっかけに。
俺たちアークスはまるで蟻地獄へと引きずり込まれるかのように、ゆっくりと、しかし確実に崩壊を始めた。
マウンドのグラン。
彼の自慢のコントロールが僅かに乱れ始める。
これまで寸分の狂いもなく決まっていたアウトコース低めのストレートが、ボール一個分外れる。
「くそっ! なんでだ! なんで思ったところに行かねえんだよ!」
彼は苛立ち、力み、そしてこの大会で初めてとなるフォアボールを与えてしまった。
打席のバルガス。
彼はチャンスで回ってきた打席で目を血走らせていた。
「うおおおおっ! 俺がこの悪い流れを断ち切ってやる!」
だが彼の自慢のフルスイングはことごとく空を切る。
まるでボールとの距離感が微妙に狂っているかのように。
彼は呆気なく三振に倒れ、その巨大なバットを悔しそうに地面に叩きつけた。
守備のエルマ。
外野に飛んだ平凡なフライ。
彼女はいつものように落下地点へと優雅に走り出す。
だが彼女は気づいていなかった。
自分の最初の一歩がいつもよりコンマ数秒遅れていることに。
ボールは彼女が伸ばしたグラブのほんの数センチ手前で、ぽとりと芝生の上に落ちた。
ヒット。
彼女はその場に立ち尽くした。
「(……私の目が……距離を見誤った……? ありえませんわ……!)」
そしてその不協和音はついに俺自身にも襲いかかってきた。
グランが投げたワンバウンドのフォークボール。
これまで何千回、何万回と体で止めてきた慣れたボール。
だが俺の体が僅かに反応が遅れた。
ボールは俺のプロテクターを弾き、バックネットへと転がっていく。
パスボール。
その間に三塁ランナーがホームイン。
スコアは1-0。
またしても俺たちの自滅による失点だった。
ベンチの空気は最悪だった。
選手たちは互いを疑心暗鬼の目で見つめ、言い争いを始めている。
「おいカイ! なんであんな簡単なゴロをエラーしやがんだ!」
「うるさいニャ! お前だって三振したじゃニャいか!」
「なんだと、コラァ!」
「みんな、落ち着いて……!」
チームの絆が軋みを上げて崩れていく。
原因が分からない。
なぜ急にこんなことになったのか誰にも分からない。
その得体の知れない恐怖が俺たちをさらにパニックへと陥れていた。
◇
その地獄のような光景をベンチの隅で一人、青ざめた顔で見つめている者がいた。
ルーナだ。
彼女はパニックに陥る仲間たちとは全く別のものと戦っていた。
彼女は魔力の流れを可視化できる特殊な水晶のモノクルを目に当て、その原因を必死で探していたのだ。
「(おかしい……何かがおかしいです……)」
「(選手たちのバイタルも魔力も正常……。グラウンドに呪いの類もかけられていない……)」
「(じゃあ一体何が、みんなをこんな状態に……?)」
彼女はフィールド全体を何度も何度もスキャンする。
そしてついにその違和感の源流を突き止めた。
―――マギノグラムの応援席。
そこから発せられるあの単調な詠唱。
彼女がモノクルを通してその詠唱に焦点を合わせると、そこには信じられない光景が広がっていた。
詠唱の声、その音波の一つ一つに僅かだが確実に、灰紫色の淀んだ魔力が纏わりついている。
そしてその魔力は霧のようにフィールド全体へと広がり、俺たちアークスの選手たちにまるで薄いベールのようにまとわりついているのだ。
「(これは……!)」
彼女は慌てて自らの知識のデータベースとその魔力波長を照合する。
そして戦慄すべき答えにたどり着いた。
「(『倦怠』の呪詛……いえ、違う。これはもっと微弱で広範囲な……選手の闘争本能と集中力を、ほんの僅かずつ削いでいく特殊な……!)」
その瞬間、フィールドでまたしても信じられないエラーが起きた。
ルーナはもう我慢できなかった。
彼女は椅子を蹴立てて立ち上がると、混乱の極みにある俺の元へと駆け寄った。
そしてその肩を強く掴んだ。
「―――ソラさん! これです!」
彼女は相手の応援席を震える指で指差した。
「あの歌です! あれはただの応援歌じゃない!」
「―――聞く者の集中力と闘争心を僅かに削ぐ、『精神干渉系』の魔法なんです!」
その魂の叫びに俺はハッと我に返った。
そしてあの不気味な老賢者パラケルススが、試合前に俺に残していったあの言葉を思い出していた。
『―――本当の戦場は、グラウンドの上だけでは、ありませんぞ』