第43球 魔法仕掛けの野球
ラピュータ・ウィングスとの死闘を制した翌日。
俺たちアークスの宿舎は静かな、しかし確かな自信に満ち溢れていた。
あの勝利は俺たちにただの一勝以上のものをもたらしてくれた。自分たちの常識が通用しない相手であろうと、チームの『対応力』と『絆』で乗り越えられる。その証明だった。
選手たちは前日の激闘で負った傷を癒しながらも、次の戦いに向けて自主的な準備を始めていた。
中庭ではバルガスとグランがフィンに、あの科学的とかいうトレーニングのやり方を教わっている。
「ぐぬぬ……! なんだこの動きは! 俺様の筋肉が悲鳴を上げてやがる!」
「フン、だが確かに体の芯に効くわい……!」
エルマとゼノはルーナを囲んで、熱心に何かのデータを分析している。
「つまり次の相手はパワーよりも、むしろ……」
「ええ。私たちの全く知らない別の理屈で戦ってくる可能性がありますわ」
そうだ。もうこのチームに慢心はない。
あの空からの挑戦者たちが、俺たちに世界の広大さを教えてくれたからだ。
そしてその日の午後。
コーシエンの運営委員会から準々決勝の組み合わせが発表された。
俺たちの次の対戦相手。
その名が作戦室の魔力水晶に映し出された瞬間、選手たちの間に安堵とも困惑ともつかない奇妙な空気が流れた。
―――『魔法王国 マギノグラム・アルケミスト』。
「マギノグラム……?」
バルガスが首を傾げる。
「聞いたことねえな。強いのか、そいつら?」
「確か国民の全てが魔術師の国でしたわね」
エルマが腕を組む。
「ですが聖球戯の強豪という話は聞きません。身体能力も我々エルフや他の亜人種に比べれば、人間族と大差ないはずです」
「なんだ、じゃあ楽勝じゃねえか!」
バルガスが豪快に笑う。
「ラピュータみてえな変な奴らじゃなくてよかったぜ!」
チーム全体がそんな楽観的なムードに包まれかける。
だが俺とルーナだけはそのチーム名を見て、顔を曇らせていた。
「(……マギノグラム)」
「(一回戦で北の地区の覇者、パワー自慢の雪男族チームを大差で下した、あの不気味なチームか……)」
「(身体能力は低い。だが勝ち上がってきている。その事実が何よりも不気味だ……)」
◇
その夜、俺とルーナは作戦室でマギノグラムの一回戦の試合映像を繰り返し、繰り返し分析していた。
そして見れば見るほど、俺たちはその異様さに言葉を失っていった。
「……おかしい」
俺は唸った。
「何かが絶対におかしい」
映像の中で雪男族の山のような巨体の選手たちが、信じられないような凡ミスを繰り返している。
ど真ん中の何の変哲もないストレートを見逃し三振。
誰もいないベースにボールを悪送球。
簡単なフライをお見合いして落球。
まるで全員が何かに酔っているかのように、その動きは緩慢で覇気がない。
「マギノグラムは何もしていないように見えます……」
ルーナが青ざめた顔で言う。
「ですが相手チームが勝手に自滅していっている……。まるで魔法にでもかかっているかのように……」
「魔法……」
俺はルーナにある部分を拡大するように指示した。
マギノグラムの応援席だ。
彼らの応援は他の国のような熱狂的なものではなかった。
ただローブを被った応援団が全員で、単調で低いドローンのような詠唱を延々と繰り返しているだけ。
「……この歌が始まった瞬間に相手チームのエラー率が、僅かに、しかし確実に上昇する傾向があります」
ルーナは魔力測定器の数値を指差した。
「見てくださいソラさん。この詠唱が始まるとスタジアム全体のマナの流れが微妙に乱れるんです。ルール違反になるような強力な魔法ではありません。ですがこれは間違いなく……」
「……選手の集中力を削ぐためのデバフ魔法か」
見えない攻撃。
俺はそのあまりにも陰湿で狡猾な戦術に、背筋が寒くなるのを感じた。
だが彼らの武器はそれだけではなかった。
俺たちはさらに映像を分析し続け、彼らがいかにして『ルール』そのものを武器にしているかを目の当たりにする。
打者がバットの規定ギリギリの、奇妙な形状の部分にボールを当て、予測不能な回転を生み出す。
走者が送球する野手のほんの僅かな死角に入るように、絶妙なコースを走る。
彼らは常に審判に何かを抗議し、試合の流れを意図的に何度も何度も中断させる。
「(こいつら……野球をしているんじゃない)」
「(ルールブックという迷宮の中で、俺たちを遭難させようとしているんだ……!)」
◇
試合前日。
俺がセントラリア大球場の薄暗い通路を一人で歩いていると、不意に背後から穏やかな老人の声がかけられた。
「―――アークランドの若き将、ソラ殿ですかな」
振り返るとそこには、長い白髭を蓄え、賢者のようなローブを身に纏った一人の老人が静かに立っていた。
その星空のように深く知的な瞳。
俺は一目で彼が誰なのかを理解した。
「……マギノグラムの監督、パラケルスス殿」
「おお、これはこれは。私のことまでご存知とは光栄ですな」
パラケルススは人の好さそうな笑みを浮かべて、ゆっくりと頭を下げた。
「あなた方の試合、拝見しましたぞ。いや実に面白い。実に興味深い野球をなさる。個々の制御不能な『混沌』を、一つの『調和』へと導く。素晴らしい戦術ドクトリンです」
「……お褒めに預かり光栄です」
「ですがな、若き将よ」
パラケルススの瞳の奥がすっと細められた。
その穏やかだったはずの雰囲気が一瞬で、剃刀のように鋭く冷たいものへと変わる。
「『野球』とは実に奥深いものですな。それは果たして力のコンテストか? 速さのコンテストか? あるいは魂のコンテストか? それもまた真実でしょう」
「……」
「ですが我々錬金術師にとって、このゲームはただの一つの『システム』に過ぎません。―――そしてそのシステムは、たった一つのものによって定義されている」
彼はどこからともなく一冊の分厚い革張りの本を取り出した。
コーシエンの公式ルールブックだ。
「あなた方の戦場は、あの緑の芝生と赤土の上。実に素晴らしい舞台です」
彼はその本を指でポンと叩いた。
「ですが我々の主戦場は―――ここにあります」
「……!」
「この言葉と言葉の行間に。解釈という名の無限の宇宙に。我々はそこにこそ、勝利への真理を見出すのです」
彼は俺の横をゆっくりと通り過ぎていく。
そして去り際に、俺にだけ聞こえるように囁いた。
「教えてくだされ、若き将よ。完璧にルールに則って行われたゲームが、それでもなお『不公平』であることはあり得るのでしょうか? ―――その答え合わせを明日、楽しみにしておりますぞ」
俺はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
その老賢者が残していった不気味な問いかけと冷たいプレッシャーに、全身の鳥肌が収まらなかった。
◇
その夜、俺はチーム全員を作戦室に集めた。
俺の顔はこれまでにないほど険しいものだっただろう。
俺は仲間たちにマギノグラムの本当の恐ろしさを全て話した。
見えない応援デバフ魔法のこと。
ルールの穴を徹底的に突いてくる狡猾な奇策のこと。
そしてあの不気味な老賢者、パラケルススのこと。
「なんだと!?」
バルガスが激昂する。
「そんなもん野球じゃねえ! ただの卑怯者のやることじゃねえか!」
「フン、いかにも人間が考えそうなことだわい。小賢しい!」
グランも吐き捨てるように言った。
「面白い」
だがゼノだけはその口元に冷たい笑みを浮かべていた。
「賢者を出し抜く道化を演じるのもまた一興。―――嫌いじゃありませんよ、そういうゲームは」
俺はそんな仲間たちに最後の指示を与えた。
「いいか、絶対に挑発に乗るな。審判に文句を言うな。そして奴らの応援歌を聞くな。必要なら耳を塞げ」
「……」
「俺たちは明日、俺たちの野球だけをやる。ただそれだけだ」
俺はルーナに向き直った。
「ルーナ。明日のキーマンはお前だ」
「……! は、はい!」
「お前のその分析能力で奴らの魔法の正体を暴き出してほしい。できるか?」
「……はい! 絶対にあのようなやり方に負けはしません!」
ルーナの瞳に強い決意の光が宿る。
俺たちは明日、目に見える敵と、そして目に見えない敵、その両方と戦わなければならない。
それはこれまでで最も厄介で、そして俺たちの精神力が試される戦いになるだろう。