第42球 世界の洗礼
最終回、9回表。
1点のリードを守り切れば俺たちの勝利だ。
マウンドに上がったのは、俺たちのもう一人の『人間』、フィンだった。
彼にはグランのようなパワーもゼノのような奇策もない。
だが彼には今のチームを勝利へと導くための、最も重要な資質があった。
―――仲間を心の底から信じる、熱いハートだ。
「……ソラ。あとは任せろ」
「……ああ。頼んだぜ、フィン」
フィンは俺のリード通り、ただひたすらに打たせて取るピッチングに徹した。
彼の後ろにはこの地獄のような試合を戦い抜き、成長を遂げた最高の仲間たちがいるのだから。
ワンアウト。
ツーアウト。
あと一人。
最後の打者がやけくそで打ち上げた打球は、高く高くセンターの空へと舞い上がった。
―――彼らの領域へと。
だが俺たちにはもう何の不安もなかった。
センターを守る風の精霊、シルフィがその打球を見上げる。
彼女は走らない。
ただ目を閉じ、風の声に耳を澄ます。
そしてまるですぐそばにいたかのように、落下地点へとすっと移動した。
白球が彼女のグラブの中に優しく吸い込まれていく。
スリーアウト。
―――ゲームセット!
その瞬間、スタジアムは割れんばかりの大歓声に包まれた。
俺たちは勝ったのだ。
あの攻略不可能に思えた空の要塞を、俺たちの泥臭い地上戦で打ち破ったのだ。
選手たちはマウンドへと駆け寄り、抱き合い、涙を流し、このあまりにも大きな一勝の味を噛みしめていた。
◇
試合後、興奮冷めやらぬスタジアムの通路。
俺たちの前にラピュータのエース、イカロスが一人で静かに歩み寄ってきた。
その顔には敗者の悔しさではなく、どこか晴れやかで清々しい表情が浮かんでいた。
「―――アークランドの将、ソラ殿」
「……イカロスさん」
「見事な地上戦でした」
彼は深々と頭を下げた。
「我々は我々の空を飛ぶ野球こそが至高の野球だと信じていました。大地を這うあなた方の野球を、どこか原始的だと見下していたのかもしれない」
「……」
「だが我々は負けた。あなた方のその泥臭く、しかし何よりも気高い翼なき者の戦術の前に完敗です。……多くを学ばせていただきました」
彼はそう言って俺に握手を求めてきた。
俺はその力強い手を強く握り返した。
天と地。
決して交わることのなかった二つの野球が、確かに互いを認め合った瞬間だった。
◇
ロッカールーム。
俺たちは勝利の余韻に浸りながらも、その体には深い深い疲労の色が浮かんでいた。
リコはヘッドスライディングで膝を盛大に擦りむいている。
フィンのボールを受けた左手は紫色に腫れ上がっていた。
誰もが満身創痍だった。
俺はそんな誇り高き傷だらけの仲間たちを見渡した。
そして静かに、しかし力強く告げた。
「……よくやった。今日は勝った。胸を張れ。そして今夜は美味い飯を食ってゆっくりと休め」
「「「おう!」」」
「だがな」
俺は続ける。
「絶対に忘れるな。今日俺たちがどれほど無力だったかを」
「……!」
「俺たちの常識が全く通用しない戦いが、このコーシエンではこの先も続いていくということを」
俺は窓の外に見えるセントラリアのきらびやかな夜景を見据えた。
あそこにはまだ俺たちの知らない、数多の『理不尽』が待ち構えている。
「気を引き締めろ」
俺は仲間たちの一人ひとりの瞳を見つめて言った。
「この勝利はゴールじゃない。俺たちがこの世界の舞台で洗礼を受けた、ただの始まりに過ぎないんだ」