第40球 空を制すな、地を制せ
4回が終わり、俺たちはベンチへと引き上げてきた。
スコアはまだ1-0。
だがその一点差がもはや決して越えることのできない、絶望的な壁のように感じられた。
俺たちはまだ一本のヒットも打てていない。
それどころか誰一人としてまともに出塁すらできていないのだ。
ベンチの空気はもはや葬儀のそれだった。
選手たちは皆うなだれ押し黙っている。
その瞳からは地方大会で見せたあの輝きが完全に消え失せていた。
「……くそっ」
バルガスが自慢のバットを悔しそうに見つめている。
「俺のパワーが……全く意味をなさねえ……」
「スピードも同じだニャ……」
カイも力なくその場に座り込んでいる。
「塁に出なきゃ俺の足はただの飾りだ……」
俺はベンチの最も端でただグラウンドを呆然と見つめていた。
頭が回らない。
転生者としての俺の知識が、経験が、このあまりにも常識から逸脱した『天空の魔球』の前では完全に沈黙している。
「(全ての武器が封じられた……)」
「(パワーもスピードも技術も、全てが奴らの『飛行能力』という絶対的なアドバンテージの前に無力化されている……)」
「(どうすればいい? どうすればあの空の要塞を攻略できるんだ……!?)」
焦りと無力感。
あの親友の肩を壊してしまった日以来の深い、深い絶望が俺の心を再び蝕み始めていた。
その重苦しい沈黙を破ったのは――。
ベンチの隅で一人、山のような記録資料と睨めっこしていた俺たちの小さなマネージャーの声だった。
「―――ソラさん」
俺はゆっくりとその声の方を向いた。
そこに立っていたのは、いつもとは全く違う鋭くそして確信に満ちた光をその瞳に宿らせたルーナの姿だった。
「……見つけました」
「……え?」
「あの『天空の魔球』の、たった一つの致命的な弱点を!」
◇
ルーナは俺を作戦ボードの前へとぐいと引っ張っていった。
彼女はその震える指先で二つの全く異なる放物線をボードに描き出す。
一つは通常の投手が投げる緩やかなカーブを描く軌道。
そしてもう一つは『天空の魔球』が描く、ほとんど垂直に近い直線の軌道だった。
「ソラさん、見てください」
ルーナの声には分析官としての興奮が滲んでいた。
「通常の変化球がなぜ有効なのか。それは横の変化と、そして重力に逆らうような『縦の変化』、つまりホップ成分があるからです。打者はその二次元的な変化に惑わされる」
「……ああ、そうだ」
「ですが見てください。この『天空の魔球』の軌道を。あまりにも落下角度が急すぎるんです。そのためこのボールには打者の目線を上下させるような有効な『縦の変化』がほとんど存在しないんです!」
俺は彼女が描いた図を見てハッとした。
そうだ。あのボールの脅威はその圧倒的な落下角度とリリースポイントの分かりにくさにある。だがそれ以外の要素はない。
あまりにも尖りすぎた一芸特化の魔球。
「そしてもう一つ」
ルーナは続ける。
「この急な角度のボールを普通にレベルスイング、あるいはアッパースイングで捉えようとするとどうなりますか?」
「……ボールの上っ面を叩いて力のないゴロになるか。あるいは下を空振りしてポップフライになるかだ」
「その通りです! そしてそれこそが相手の思う壺なんです! フライは翼を持つ彼らに全て捕球されてしまう!」
「……!」
「ですがもし。もしこの常識とは全く逆のスイングをしたとしたら?」
ルーナは新しい図を描いた。
上から下に叩きつけるようなダウンスイングの軌道。
そしてそのバットが落下してくるボールの下半分を捉える図。
「ボールの下半分を上から叩きつける……。そうすればボールには強烈なトップスピン(順回転)がかかり、打球はフライではなく地面に叩きつけられるはずです! それもただのゴロじゃない。イレギュラーバウンドしやすい、予測不能な速いゴロになるはずです!」
俺の頭の中で雷鳴が轟いた。
そうだ。
それだ。
それしかない。
翼を持つ彼らにとって空は自分たちの庭だ。
だがその代償として彼らは大地での戦い方を忘れている。
地上を這う予測不能な打球こそが彼らの唯一にして最大の弱点なのだ。
◇
5回表、アークスの攻撃が始まる直前。
俺はうなだれていた選手たちを叩き起こすように円陣を組ませた。
そしてルーナが見つけ出したたった一つの光明を全員に共有した。
「―――いいかお前ら! 次の回から戦術を完全に変更する!」
俺の力強い声に選手たちが驚いたように顔を上げる。
「フライを上げるな! ホームランも長打ももう狙うな! ただひたすらにボールを地面に叩きつけろ!」
「……叩きつけろ、だって!?」
「そうだ! アッパースイングは禁止だ! 全員上から下に、薪でも割るかのようにバットを振り下ろせ!」
選手たちの顔に当然戸惑いの色が浮かぶ。
「キャプテン、そんな野球の基本と真逆じゃねえか!」
「そんなスイングで本当に前に飛ぶのかよ……」
「飛ばさなくていい!」
俺は叫んだ。
「俺たちがこれからやるのは綺麗な野球じゃない。泥臭くみっともなく、地面を這いずり回る俺たちだけのゲリラ戦だ」
俺は天を指差した。
「―――いいか、空はくれてやる。俺たちは地を制すんだ!」
5回裏、アークスの攻撃。
俺のあまりにも常識から逸脱した指示に選手たちは戸惑いながらも、そのダウンスイングを試み始めた。
だが長年体に染み付いた筋肉の記憶はそう簡単には消えない。
先頭打者のフィンはボールを地面に叩きつけすぎてファウルフライ。
続くグランは逆に力が入りすぎて力のないポップフライ。
あっという間にツーアウト。
「(……ダメか……!)」
「(やはり一朝一夕でできるような簡単なことでは……!)」
俺が諦めかけたその時だった。
バッターボックスには8番のゼノ。
彼は俺の指示を聞いた時からずっと何かを面白そうに考えていた。
そして彼は呟いた。
「(……なるほど。上から下に叩きつける、か)」
「(まるで魔法剣の防御からの斬り下ろし。面白い)」
天空から魔球が落下してくる。
ゼノは力を完全に抜いた。
そしてそのしなやかな手首のスナップだけを使い、まるで剣で相手の攻撃を受け流すかのように、バットを短くそして鋭く振り下ろした。
―――カッ!
これまでとは全く違う乾いた打球音。
ボールは彼の狙い通り強烈なトップスピンがかかり、ピッチャーの足元、硬い土の部分に叩きつけられた。
そして次の瞬間。
ボールはまるで魔法でもかかったかのように高く高く跳ね上がった。
「なっ!?」
前進してきたラピュータの内野陣の遥か頭上をボールが越えていく。
打球はセンター前へと転々としていった。
チーム初ヒット。
一瞬の静寂の後、アークスのベンチが爆発した。
「うおおおおおっ! やった!」
「抜けた! 抜けたぞ!」
そうだ。
これだ。
これが俺たちが、あの空の要塞を打ち破るためのたった一つの突破口。
ゼノのあの一打を見た瞬間、チームの意識は完全に一つになった。
俺たちの本当の反撃が今、始まろうとしていた。