第33球 帝国の影、最後の秘技
伝説のグラウンドでの奇妙な特訓が始まって数日が過ぎた夜。
選手たちは慣れない共同生活とこれまでの常識を覆す練習の連続で、心身ともに疲労のピークに達していた。ロッジの中からはバルガスの大地を揺るがすようないびきや、カイの安らかな寝息が聞こえてくる。
焚き火の最後の残り火が静かにパチパチと音を立てていた。
-この合宿に来てから誰もが泥だらけになりながらも、どこか楽しそうだった。忘れていた、野球を始めたばかりの頃の純粋な喜び。それがこの場所にはあった。
だがその穏やかな静寂とは裏腹に、ロッジの一室だけにはまだ煌々と明かりが灯っていた。
俺とルーナは選手たちが寝静まった後も、こうして毎夜持ち込んだ魔力水晶を使い、コーシエン本戦出場国の分析を続けていたのだ。
「……次で最後です、ソラさん」
ルーナが震える声で言う。
彼女の指先が水晶の操作盤の上を、ためらうように彷徨う。
俺たちはこの数日間で、全国の猛者たちのデータを嫌というほど見てきた。
西の地区を制したのは、平均身長が3メートルを超える巨人族だけで構成されたチーム。彼らの打球は全てがホームランだった。
東の地区は、幻術を得意とする妖精族のチーム。彼らの投げるボールは打者の目の前で消えたり増えたりした。
もはや俺の知る野球ではない。怪獣大戦争か魔法大戦だ。
だがそれらは全て、これから見る『本物』の絶望への序章に過ぎなかった。
「……再生してくれ、ルーナ」
「……はい」
ルーナが覚悟を決めたように操作盤に触れる。
スクリーンに一つの国の名が、禍々しいほどの威厳を放って映し出された。
―――絶対王者『ヴァルム帝国』。
そしてその中心に立つ一人の男の姿が大きくアップになった。
竜人族、レクス。
俺たちがこれから超えなければならない、神の領域に最も近い男。
最初に映し出されたのは彼の投球シーンだった。
相手打者は南の地区を圧倒的な攻撃力で勝ち上がってきたオーク族の強打者だ。その腕はバルガスのそれよりもさらに太い。
だがマウンドに立つレクスは、まるで子供をあやすかのように退屈そうな表情を浮かべていた。
彼は無駄な力を一切感じさせない滑らかなフォームで、その腕をしなやかに振るった。
―――瞬間。
世界から音が消えた。
ボールが放たれたことすら認識できなかった。
気づいた時にはボールは捕手のミットに突き刺さっていた。
ミットから白い煙が上がっている。
魔力水晶の表示が一瞬バグを起こし、そして信じがたい数値を表示した。
―――198km/h。
オークの強打者はバットを振ることすらできず、その場にへたり込んだ。
その瞳には恐怖と、理解不能なものに出会ってしまった純粋な絶望だけが浮かんでいた。
次の球。
レクスは今度、ふわりとした山なりのカーブを投げた。
だがそのボールはホームベースの手前で物理法則を完全に無視して直角に曲がり、打者の膝元へと食い込んでいった。
空振り。
そして三球目。
再び剛速球。
オークの打者は今度は意地でその剛速球に食らいつこうと、渾身の力でバットを振った。
だが彼のバットはボールの遥か下を虚しく切り裂いただけだった。
三振。
レクスはそんな相手に何の興味も示さず、ただ欠伸を一つしただけだった。
「……」
「……」
俺もルーナも息をすることすら忘れていた。
「(なんだ……あれは……)」
「(イグニスの180km/hが子供の遊びに見える……)」
「(速さだけじゃない。技術も精神力も何もかもが完璧だ……。データ上の弱点がどこにもない……!)」
次に彼の打撃シーンが映し出される。
相手投手は精密機械と恐れられる伝説的なエルフの老投手だった。
彼が投じた外角低め、寸分の狂いもない完璧なコースへのスライダー。
シルヴァニア戦で俺たちが、あれほど苦しめられた芸術品のような一球。
だがレクスはそのボールを、まるで止まっているボールを打つかのようにこともなげに、片手一本で軽く弾き返した。
―――ゴォォン!
これまでのどんな打球音とも違う、まるで大砲が放たれたかのような重く腹の底に響く破壊音。
打球は放物線を描かない。
低く鋭いレーザービームのような弾丸となってあっという間に外野フェンスを越え、スタンドを越え、スタジアムの遥か場外の夜の闇へと消えていった。
誰もが呆然と、その打球が消えていった空を見上げている。
レクスはダイヤモンドを一周することもなく「つまらん」とでも言いたげにベンチへと戻っていった。
―――プツン。
映像が終わった。
後に残されたのは、重く息苦しい絶望的な沈黙だけだった。
「……勝てません」
やがてルーナがか細い、絞り出すような声で呟いた。
彼女の瞳からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちている。
「勝てませんよ……こんな相手……!」
「……」
「イグニス選手の180km/hですら私たちにとってはあんなに大きな壁だったのに……! この人は……このレクスという人は、全く次元が違います……!」
「パワーも技術も精神力も……全てが完璧です。データに弱点が一つもないんです……!」
「ごめんなさい、ソラさん……ごめんなさい……!」
ルーナはその場に崩れ落ちて泣きじゃくった。
分析官としてマネージャーとして、「勝てません」という言葉を口にすることがどれほど辛く悔しいことか。俺には痛いほど分かった。
そして俺自身もまた、その圧倒的なまでの力の差に言葉を失っていた。
「(……これが世界の頂点か)」
「(これが神の領域か……)」
「(俺の知識も戦術も仲間たちの絆も……こんな絶対的な『個』の力の前に本当に通用するのか……?)」
長い、長い沈黙が部屋を支配した。
俺はスクリーンに映るレクスの冷たい王者の瞳を、ただじっと見つめ続けていた。
そして。
俺はゆっくりと顔を上げた。
その口元には絶望の色ではなく、挑戦者の獰猛な狂気じみた笑みが浮かんでいた。
「……ゼロじゃない」
「……え?」
涙で濡れた瞳でルーナが俺を見る。
「ああ、ゼロじゃない。ルーナ、お前の言う通りだ。今の俺たちのまま奴らの土俵でまともに戦ったら、3回もたずに annihilated(全滅)されるだろう」
「……」
「だがな」
俺は立ち上がると、作戦ボードに一枚の真っ白な羊皮紙を貼り付けた。
「奴らが神なら。俺たちは神殺しのための『魔術』を編み出すしかない」
俺はペンを手に取ると、その羊皮紙に猛烈な勢いで線、円、矢印を書き殴り始めた。
それはもはや野球の作戦図ではなかった。
禁断の魔術の召喚陣のようだった。
「いいか、奴らは強い。完璧だ。だからこそ奴らの思考には僅かな『驕り』と『常識』という名の隙間がある。奴らは野球が自分たちの知るルールの範囲内で行われると信じきっている」
「……」
「なら俺たちはそのルールのギリギリ内側で戦う。奴らが野球だと認識することすらできない、全く新しいゲームを仕掛けるんだ」
俺はルーナに向き直り、その瞳を強く見据えた。
「俺の転生者としての知識と、あいつらのこの世界の理不尽な個性を完璧に、寸分の狂いもなく融合させることができたなら……そこにたった1パーセントの可能性が生まれる」
俺は書き上げたばかりの複雑怪奇な設計図を指差した。
「例えばランナー一、三塁。三塁ランナーのカイがその神速でホームスチールを偽装し、投手と捕手の注意を極限まで引きつける。投手がカイに気を取られ投球モーションに入った、そのコンマ数秒の隙を突き、一塁ランナーのリコが盗塁を開始する。そして打席のゼノは盗塁を助け相手の思考をさらに飽和させるため、バントの構えからヒッティングに切り替える『バスター』を仕掛ける。――ホームスチール偽装、盗塁、バスター。この三つの事象を完全に、同時に発動させる」
ルーナはそのあまりにも常軌を逸した作戦図を、信じられないという顔で見つめている。
「帝国の完璧な守備陣ですら一度に三つの可能性に対処することはできない。必ず思考に僅かなバグが生まれる。そのバグを俺たちはこじ開けるんだ。全員が完璧に連動しなければ全てが崩壊する。諸刃の剣だ」
「……」
「―――名を『アルカヌム』。俺たちの最後の秘儀だ」
その狂気の計画にルーナは絶望ではなく、ほんの僅かな、しかし確かな希望の光を見出していた。
その頃。
俺たちのそのロッジから遥か彼方の、闇に包まれた山頂で。
一人の漆黒のマントを纏った斥候が魔法の望遠鏡で俺たちの合宿地を冷たく監視していたことには、まだ誰も気づいていなかった。
そのマントにはヴァルム帝国の紋章が月明かりを浴びて、不気味に浮かび上がっていた。
「……報告。対象アークランド、依然不可解な訓練を継続中。だが個々の能力の成長速度、およびチームとしての連携のポテンシャルは予測不能。監視を継続する……」