第32球 己の殻を破れ
伝説のグラウンドで迎えた合宿二日目の朝。
夜明けと共に俺は選手たちをグラウンドの中央に集めた。昨日一日サバイバル生活を共にしたことで彼らの間にあったいがみ合いは消え、代わりに奇妙な連帯感が生まれていた。その顔にはこれから始まるであろう過酷な練習への覚悟と、そしてほんの少しの期待が浮かんでいる。
「よし、いい顔になったな、お前ら」
俺はニヤリと笑って言った。
「昨日までのことは忘れてもらう。今日からが本当の地獄の始まりだ」
俺は昨夜、焚き火の明かりを頼りに書き上げた特製の練習メニューを、大きな羊皮紙で貼り出した。
選手たちがその内容を読もうと、わらわらと集まってくる。
そして。
―――シン……。
辺りは水を打ったように静まり返った。
誰もが羊皮紙に書かれた信じられない文字の羅列を、ただ呆然と見つめている。
やがてその沈黙を破ったのは、バルガスの魂の叫びだった。
「な、ななな、なんだこりゃあああああああ!」
彼の絶叫を皮切りに、選手たちの不満と困惑が一気に爆発した。
「『グラン、バルガス:球拾い、素振り、一切を禁ず。一日中ノミによる彫刻と川での釣りに専念すべし』……だとぉ!?」
グランがそのドワーフの目をカッと見開く。
「親方! 正気か!? ドワーフたるワシに神聖な鎚ではなく、こんな子供のおもちゃのようなノミを握れと!? これはワシの職人としての誇りへの侮辱だわい!」
「『カイ、エルマ:両名、目隠しをした状態でキャッチボールを行うべし』……ですって!?」
エルマがその美しい顔を蒼白にさせている。
「死ねと、おっしゃっているのですか!? ボールが見えない状況でどうやって捕球しろと!? 非科学的にもほどがありますわ!」
「そうだニャ! 俺の自慢の動体視力がこれじゃ全く役に立たないニャ! 怪我したらどうするんだ!」
俺はそんな彼らの抗議の嵐を腕を組んで静かに受け止めていた。
そして全員が言いたいことを言い尽くしたのを見計らって口を開いた。
「文句はそれだけか?」
「「「当たり前だ!」」」
「そうか。なら問答無用で実行してもらう」
「なっ!?」
「いいかお前ら。俺は昨日言ったはずだ。『今までの自分を捨てろ』と。お前たちがこれまで『常識』だと思っていた練習方法は、この世界の頂点に立つためにはもはや何の役にも立たない。俺を信じられないなら今すぐこの場を去れ」
俺の有無を言わさぬその言葉に、選手たちはぐっと押し黙る。
俺は静かに、だが力強く続けた。
「これはお前たちが己の殻を破るための試練だ」
◇
こうして俺が考案した前代未聞の奇妙な特訓が始まった。
まず最も反発していたグランとバルガスの『パワー』コンビ。
彼らは俺から渡された一本の小さなノミと何の変哲もない木の塊を前に、途方に暮れていた。
「くそっ……! だからどうすりゃいいんだよ、これ!」
バルガスは苛立ちを隠せず、その有り余るパワーで力任せにノミを木に突き立てる。
だが木は彼の意のままになるどころか、バキリと音を立てて無残にささくれだって砕けてしまった。
「うおおおおっ! このクソみてえな木がぁ!」
「このど阿呆が! だから力任せにやるなと言っとるだろうが!」
隣で同じように悪戦苦闘していたグランが怒鳴りつける。
彼もまた職人としてのプライドからこの繊細な作業に心の底から苛立っていた。彼の本能が「叩き潰せ」と叫んでいるのだ。
俺はそんな二人の元へゆっくりと歩み寄った。
「お前ら二人とも根本的に間違っている」
「……なにがだ、親方」
「お前たちは自分の『力』で木を支配しようとしている。だがそれは違う。木を感じろ。道具を感じろ。そしてお前たちのそのやかましい筋肉を黙らせろ」
俺は彼らの手からノミを取り上げ、自分の指先で木の表面をそっと撫でた。
「筋肉が叫んでいるうちは本当の『力』はコントロールできない。本当の力はな、静寂の中から生まれるんだ。お前たちの筋肉が叫び声ではなく囁くようになった時、初めてこの木はお前たちに応えてくれる」
俺の言葉に二人はキョトンとしている。
だがその日の午後。
何百回という失敗を繰り返した末に奇跡は起きた。
バルガスがふと力を抜いた瞬間。彼が突き立てたノミが、スッとまるでバターを切るかのように滑らかに木の中へと吸い込まれていったのだ。
「……え?」
バルガスは自分の手と綺麗に削れた木屑を、信じられないという顔で交互に見つめている。
それは彼が生まれて初めて感じた、「力みなくして対象を支配する」という新しい感覚だった。
その日の夕方。
川での「釣り」においても、彼らはその新しい感覚をさらに研ぎ澄ませていった。
最初は力任せに釣り糸を垂らし魚に逃げられ続けていた二人。
だが俺の「気配を消せ。川と一つになれ」というアドバイスの末に、彼らは驚異的な集中力を発揮し始めた。
そして日が暮れる頃には、彼らはまるで熟練の漁師のように次々と獲物を釣り上げていた。
その顔には疲労と、それ以上の何かを掴んだという確かな手応えが浮かんでいた。
◇
一方、カイとエルマの『感覚』コンビの特訓もまた困難を極めていた。
「―――えいっ!」
目隠しをしたエルマが声を頼りにボールを投げる。
「―――にゃにゃっ!?」
同じく目隠しをしたカイがその気配を頼りに、明後日の方向へと飛びつく。
ボールは二人の間を虚しくすり抜けていった。
「だから! なぜそこにいないのですか!」
エルマが苛立ちを隠さずに叫ぶ。
「そんなこと言ったって分かんないんだニャ! お前の気配、ふわふわしてて掴みどころがないんだニャ!」
「なんですって!? それはあなたの感覚が獣レベルで鈍いだけでしょうが!」
プライドの高い二人は全くソリが合わない。
練習は開始から数時間、全く進展していなかった。
俺はそんな二人に一つのボールを手渡した。
そのボールには小さな鈴がいくつも括り付けられていた。
「……なんですの、これは?」
「音を聞け」
俺は簡潔に言った。
「相手の呼吸を聞け。衣擦れの音を聞け。そしてこの鈴の音で空間を感じろ。お前たちは目が見えないんじゃない。目以外の全ての感覚が研ぎ澄まされるんだ」
「……」
「いいか、これはただのキャッチボールじゃない。お前たちの『魂』のキャッチボールだ」
俺の言葉に二人は半信半疑ながらも、再び目隠しを付け直した。
チリン、と鈴の音が静かな森に響く。
最初はやはりうまくいかなかった。
だが何百球と投げ合ううちに、彼らの間に不思議な変化が生まれ始めた。
カイは耳をピクピクと動かし、エルマの僅かな呼吸の乱れ、重心の移動を音で完璧に捉え始める。
エルマもまたその研ぎ澄まされた聴覚で、カイのしなやかな筋肉の動き、地面を蹴る音を立体的に把握し始める。
そして。
その日の夕暮れ時。
エルマが投げた鈴の音を鳴らすボールを、カイはまるで最初からそこにボールが来ると分かっていたかのように、一歩も動かずそのグラブで完璧にキャッチした。
一瞬の沈黙。
二人は目隠しをしたまま互いの存在を、これまでにないほど強くそして確かに感じていた。
それは彼らの間に生まれた、言葉を超えた『信頼』の始まりだった。
◇
その頃、フィンやリコといった特別な能力を持たない選手たちは、俺が教える日本の科学的なトレーニング理論に悲鳴を上げていた。
「はぁ……はぁ……キャプテン……! もう無理……死ぬ……!」
「こ、これが……インターバルトレーニング……!」
だが彼らは決して音を上げなかった。
自分たちにできることはこれしかないと分かっていたからだ。
彼らは来る日も来る日も泥だらけになりながら、己の肉体の限界のさらにその先へと挑み続けた。
合宿が始まって数日後。
焚き火を囲む選手たちの顔つきは、来た時とは別人のように精悍になっていた。
そして誰もが自分の体に起きている、確かな『変化』を感じていた。
「……なんだか不思議な感じだ。力は抜けているのに素振りをすると、前よりもバットが鋭く振れる」
バルガスが自分の拳を不思議そうに見つめている。
「うむ。ワシもだ。指先の感覚がこれまで以上に鋭敏になっている。これならどんな繊細な変化球でも投げられる気がするわい」
グランも満足げに頷く。
カイとエルマは多くを語らない。
だが二人の間に流れる空気は、以前のような刺々しいものではなくなっていた。
俺はそんな彼らの姿を静かに、そして誇らしく見つめていた。
「(……そうだ。それでいい)」
「(お前たちは確実に自分の殻を破り始めている)」
「(生まれ持った力に溺れるだけじゃない。それをコントロールし、磨き上げ、そして『進化』しようとしている)」
それは俺たちが世界の神々を打ち破るための、確かな第一歩だった。