第31球 伝説のグラウンドにて
俺があの祝賀パーティで「地獄の合宿を開始する」と宣言した翌日。
アークスのメンバーは案の定、最悪のコンディションで王城の前に集合した。
「うう……頭がガンガンする……」
「昨日のドワーフエールがまだ残ってるぜ……」
バルガスとグランは見事な二日酔いで青い顔をしている。
「信じられないニャ……。俺はこれから始まるはずだった、貴族の令嬢たちとの優雅なティーパーティーを全部キャンセルさせられたんだニャ……」
カイはこの世の終わりのような顔で地面に突っ伏している。
「肌の調子が最悪ですわ。見てくださいこの吹き出物を。全てあなたのせいですわよ、キャプテン」
エルマは小さな手鏡を覗き込みながら俺を鋭く睨みつける。
俺はそんな彼らの文句を全て無視した。
「全員、乗ったな? ――出発だ」
俺たちが乗り込んだのは、王都を走るような豪華な魔力馬車ではない。荷物の運搬に使われる、古びてガタガタと絶えず揺れるおんぼろの護送車のようなものだった。
揺れるたびに、選手たちの不満と文句が車内に充満する。
「おい、キャプテン! 一体どこに向かってるんだよ!」
「どうせろくな場所じゃないことは確かですわね」
「うう……揺れで吐きそうだ……」
俺はそんな彼らの声をBGMに、一人窓の外を流れる景色を静かに見つめていた。
きらびやかな王都の街並みはあっという間に遠ざかっていく。
道は舗装されなくなり、建物はまばらになり、やがて人の気配すらない鬱蒼とした森の中へと、俺たちを乗せた馬車は進んでいった。
そして、数時間後。
俺たちは目的地に到着した。
そこはアークランドの辺境、忘れ去られた山の麓にひっそりと存在する古びた野球場だった。
「……は?」
馬車から降りた選手たちが呆然と、その光景を見上げていた。
そこは『グラウンド』と呼ぶのもおこがましいような場所だった。
外野の芝生は手入れもされずに伸び放題。
ベースはすり減ったただの石ころ。
フェンスはところどころが腐り落ちたただの木の柵。
そして俺たちがこれから寝泊まりするはずのロッジは、お化け屋敷と見紛うばかりの今にも崩れ落ちそうなオンボロの小屋だった。
「……嘘だろ」
バルガスの口から乾いた声が漏れる。
「俺たち、これからこんな場所で生活するのか……?」
「電気も水道も通っていないようですわね」
「冗談だと言ってくれ、キャプテン!」
「俺のふわふわのベッドはどこニャ……!?」
選手たちの不満がついに爆発した。
だが俺はそんな彼らに、冷たくそして簡潔に言い放った。
「文句があるなら今すぐ帰れ。だがチームに戻る場所はないと思え」
「……!」
「そして今日の練習メニューだ」
俺は近くの木の幹に一枚の羊皮紙を貼り付けた。
そこに書かれていたのはたった一文。
――『日没までに全員が寝食できる環境を自力で整えろ』。
それだけを言うと、俺は近くの大きな木の下にどっかりと腰を下ろし目を閉じた。
あとはこいつらがどう動くか。
それを見極めるのがこの合宿の最初のテストだった。
◇
案の定、俺の指示に選手たちは完全に途方に暮れていた。
彼らは地方の英雄だ。こんな原始的なサバイバル生活など経験したことがあるはずもない。
「どうすんだよこれ……」
「キャプテンの奴、本当に何もしないつもりだぜ」
「腹減ったニャ……」
しばらく無意味な言い争いが続いた。
だが腹が減っては戦はできぬ。
やがて最も現実的な男フィンが、しびれを切らして立ち上がった。
「……やるしかないだろ! 文句言ってても腹は膨れないぞ!」
フィンのその一言で、ようやくチームは重い腰を上げた。
そこからの光景はカオスであり、そしてどこか滑稽だった。
「うおおおおおっ! 薪割りなんざ俺様に任せろ!」
バルガスが近くに転がっていた巨大な丸太を、その自慢の拳で力任せに殴りつけた。
だが丸太は砕けることなく、逆にバルガスが「いってえ!」とその拳を押さえて蹲る。
「このど阿呆が! 薪割りは力だけでやるもんじゃねえわい!」
それを見ていたグランが呆れたように、近くに落ちていた錆びた斧を手に取った。
「よく見ておれミノタウロスの。こうやって木の目に沿って、最小限の力で斧の重さを乗せるように振り下ろすんじゃ!」
カン!と心地よい音を立てて丸太が綺麗に真っ二つに割れる。
それは彼の得意なサブマリン投法のように、力みなく洗練された職人の技だった。
バルガスはその見事な技に、素直に「すげえ……」と感嘆の声を漏らしていた。
水の確保に向かったのはリコとフィン。
彼らは近くを流れる小川で何度も転び、泥だらけになりながらも協力して大きな樽を水で満たしていく。
「なあフィン。キャプテン、本当に何を考えてるんだろうな」
「さあな。だがきっと何か考えがあるんだろ。あいつはそういう奴だよ」
二人の間には穏やかな信頼関係が流れていた。
そして食料の調達で、誰もが予想しなかった才能を発揮したのがカイだった。
彼は「ちょっと散歩してくるニャ」と森の中に消えたかと思うと、数十分後にはその両腕に何匹もの巨大な川魚を抱えて意気揚々と戻ってきたのだ。
「ニャはは! このカイ様に掛かればこんなもの朝飯前だニャ!」
どうやらその俊敏な動きで、川の中を泳ぐ魚を素手で捕まえてきたらしい。
その原始的だが驚異的なサバイバル能力に、誰もが尊敬の眼差しを向けていた。
問題は調理だった。
「料理なら私に任せなさい」
エルマがその美しい顔に似合わぬ煤だらけのエプロンを身につけ、自信満々に指揮を執り始める。
「いいですこと? 火加減は常に弱火でじっくりと。それが素材の味を最大限に引き出す美しき調理法ですわ」
「……おいエルフの姉ちゃん。日が暮れちまうぜ、それじゃ」
「やれやれ、素人は下がっていなさい」
今度はゼノがどこからともなくマイ包丁セットを取り出して割り込んできた。
「料理とはすなわち、素材と炎が織りなす一種の錬金術です。私の手にかかればこの野蛮な魚も、至高の一皿へと昇華させてご覧に入れましょう」
だが結果は悲惨だった。
エルマのじっくり調理法では魚はいつまで経っても生焼け。
ゼノの錬金術は、見た目だけは完璧な炭の塊を生み出しただけだった。
結局その日の夕食は、カイが捕ってきた魚をただ串に刺して塩を振って焚き火で焼いただけの、シンプルな塩焼きになった。
だがその魚が驚くほど美味かった。
自分たちで火を起こし、自分たちで食料を調達し、自分たちで調理する。
その当たり前のことがひどく新鮮で、そして楽しかった。
◇
夜。
俺たちは自分たちで起こした、パチパチと音を立てる焚き火を全員で囲んでいた。
空には満天の星。
昼間のいがみ合いが嘘のように、そこには穏やかで温かい時間が流れていた。
誰からともなく、ぽつりぽつりとみんなが自分のことを語り始めた。
グランがなぜ野球よりも鍛冶師の道を選んだのか。
エルマがなぜそこまで『美しさ』にこだわるのか。
カイがなぜ何にも縛られずに自由に生きることを望むのか。
俺はただ黙ってその話に耳を傾けていた。
そして全員が語り終えた後、俺はゆっくりと口を開いた。
「ここは『聖球戯が初めてこの地に伝わった場所』だと言われている」
俺の言葉にみんながハッとしたように、古びたグラウンドを見渡す。
「ここには名誉も金も国の威信も何もない。ただ一本の棒と一つの石と、それを心の底から楽しんでいた名もなき先人たちの想いだけが残っている」
俺は立ち上がった。
そして仲間たちの顔を一人ひとり見つめて言った。
「俺はお前たちに一度、全てを忘れてほしい」
「……忘れる、だと?」
「ああ。地方チャンピオンであることも、4番であることも、エースであることも全てだ。そしてただの野球が好きなクソガキに戻ってほしい」
俺は焚き火の向こう側に見える、コーシエンへと続く遥かなる道を見据えた。
「俺たちがこれから戦う世界の猛者たちはめちゃくちゃ強い。だがそれだけじゃない。あいつらは誰よりも心の底から、野球を愛している」
「……」
「あいつらに勝つために俺たちに、ただ一つだけできることがある」
「――それはこの世界で、誰よりも野球を愛するチームになることだ」
俺の本当の想い。
それがようやく仲間たちの心に届いた。
誰ももう何も言わなかった。
ただその瞳に、静かだが燃えるような覚悟の光を宿して力強く頷いていた。
俺たちの本当の合宿が始まろうとしていた。




