第29球 地方の頂へ
―――カッッッッッ!!!!
世界に、それ以外の音は、なかった。
俺の、そして親友の、理想のスイングから放たれた打球。
その心地よい感触だけを掌に残し、俺の周りの時間の流れが、完全に停止した。
スローモーションの世界。
俺は、見た。
マウンドの上で、全てを出し尽くし、膝から崩れ落ちるイグニスの姿を。彼の爬虫類のような瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく見開かれている。
三塁ベース上で、スタートを切ったカイが、まるで猫科の猛獣のように、地面スレスレの姿勢で、ホームへと向かっていくのを。
二塁ベース上で、フィンが、ただ、がむしゃらに、泥臭く、次の塁を目指して、地面を蹴るのを。
一塁ベース上で、リコが、その小さな体で、人生で一番速いスタートを切るのを。
そして、俺たちのベンチで、ルーナが、グランが、仲間たち全員が、祈るように、その打球の行方を見つめているのを。
打球は、夜空を切り裂く、一本の白い槍となって、センター方向へと、突き刺さるように飛んでいった。
それは、ホームランのような、美しい放物線ではない。
ただ、ひたすらに、低く、速く、相手の守備網を、食い破るための、執念の弾丸だった。
―――時間が、動き出す。
「「「いけええええええええええええええっ!」」」
スタジアム中の、数万の観客の絶叫が、俺の鼓膜を揺さぶった。
俺は、我に返り、一塁ベースへと、全力で走り出していた。
ヴルカニアの野手たちも、必死でボールを追う。
センターを守る、俊足の豹族の獣人が、その野生の本能で、打球の落下地点へと、猛然とダッシュする。
「(間に合う! 間に合え! 俺たちの、火山公国の誇りが、こんなところで、終わってたまるか!)」
彼は、地面スレスレで、その身を投げ出した。
グラブが、一直線に、白球へと伸びる。
捕れるか――!?
抜けるか――!?
歓声と、悲鳴が、入り混じる。
打球は、必死に伸ばされた彼のグラブの、その先端の、ほんの数センチ上を、無情にも、通り過ぎていった。
ザシャアアァァッ!
ボールは、外野の芝生をえぐり、勢いを殺すことなく、転々と、最も深い、フェンスまで転がっていく。
その瞬間、俺たちの勝利への道が、開かれた。
三塁ランナーのカイが、風のように、同点のホームイン。
スコアは、12-12。
ベンチが、爆発する。
だが、まだだ! まだ終わらない!
二塁ランナーのフィンが、必死の形相で、三塁ベースを蹴った。
彼の肺は、もう限界のはずだ。足も、鉛のように重いはずだ。
だが、彼は、走るのを、やめない。
特別な力を持たない、ただの人間である彼が、チームの勝利のために、その魂を、燃やし尽くす。
ボールが、中継のショートへ渡る。
ショートから、キャッチャーへ。
レーザービームのような、送球。
クロスプレー。
間に合うか――!?
「うおおおおおおおっ!」
フィンは、もはやスライディングですらなかった。
彼は、ただ、自分の体を、ホームベースへと、投げ出した。
その、泥だらけの指先が、相手捕手のタッチよりも、コンマ数秒、早く、ホームベースに、触れた。
「セ―――フ!」
審判の、腕が、大きく、横に広げられる。
サヨナラ。
逆転。
試合、終了。
◇
俺が、二塁ベースを蹴ったところで、そのコールを聞いた。
足が、止まる。
膝から、力が、抜けていく。
(……終わった……のか……?)
信じられなかった。
あの絶望的な点差を、あの圧倒的な暴力を、俺たちが、本当に、ひっくり返したなんて。
俺は、その場に、膝から、崩れ落ちた。
その瞬間、俺の中で、張り詰めていた全てのものが、一気に、溢れ出した。
監督としての、重圧。
転生者としての、孤独。
親友を壊してしまった、後悔。
仲間を、また壊してしまうのではないかという、恐怖。
その全てが、熱い、熱い涙となって、俺の頬を、とめどなく、流れ落ちていった。
「う……うわあああああああああああああっ!」
俺は、子供のように、声を上げて、泣いた。
「キャプテーン!」
「ソラァァァァッ!」
次の瞬間、俺の体は、歓喜の雄叫びをあげる仲間たちによって、もみくちゃにされていた。
バルガスが、俺を、軽々と、その巨大な肩に担ぎ上げる。
「見たか、コラァ! これが、俺たちのキャプテンだ!」
「親方! 最高だぜ、あんた!」
グランが、負傷していない方の腕で、俺の頭を、ぐしゃぐしゃに撫でる。
「ソラさん! やりました! やりましたね!」
ルーナが、ベンチで、号泣している。
エルマも、ゼノも、カイも、リコも、フィンも、誰もが、最高の笑顔で、俺の名前を叫んでいた。
スコアボードは、バルガスの一撃で壊れたままだったが、その一部は、まだ生きていて、最後のスコアを、誇らしげに、表示していた。
『12-13X』。
信じられない、大逆転劇。
俺は、仲間たちに担がれながら、空を見上げた。
そこには、俺がこの世界に来てから、見た中で、一番美しい、紫と緑の月が、浮かんでいた。
◇
表彰式。
俺たちアークスの、名もなき小国の旗が、ゆっくりと、スタジアムの最も高い場所へと、掲げられていく。
アリシア王女から授与された、黄金の優勝トロフィーが、ナイターの光を浴びて、キラキラと輝いていた。
俺は、キャプテンとして、優勝インタビューのマイクの前に立った。
俺は、自分のことなど、何も話さなかった。
ただ、この、不格好で、最高に愛おしい、仲間たちのことを、話した。
そして、俺たちと、死闘を繰り広げてくれた、ライバルたちのことを、話した。
「この勝利は、俺たちだけのものじゃない。ここで戦った、全てのチームの想いを、俺たちは背負っている。だから、俺たちは、この地方の代表として、胸を張って、コーシエンに挑みます!」
俺の言葉に、スタンドの一角で、俺たちの戦いを見守ってくれていた、ダインが、ルシオンが、キッドが、満足げに、頷いてくれているのが、見えた。
小国アークランドが、数多の強豪を打ち破り、地方の頂点に立った、歴史的な瞬間。
ここが、俺たちのスタートラインだけども、まずはこの瞬間を味わいたいと思う。
明日からは1日1更新(21:30予定)です。