第28球 魂の対決
9回裏、アークスの攻撃。
スコアは、12-11。
一点差。
俺たちの、奇跡のような猛追によって、絶対的な暴力の化身であったはずのヴルカニア・バーサーカーズを、あと一歩のところまで、追い詰めていた。
だが、現実は非情だ。
粘る俺たちの前に、相手エースのイグニスが、その怪物のようなスタミナで立ちはだかる。
先頭打者のフィンが倒れ、ワンアウト。
続くリコも、気迫で食らいつくが、180km/hを超える剛速球の前に、空振り三振。
ツーアウト。ランナー無し。
「……くそっ」
「ここまで、なのか……!」
ベンチの仲間たちに、再び、絶望の色が浮かび始める。
あと、たった一人。
この打者が倒れれば、俺たちの、奇跡の夏は、終わる。
だが、ここからだった。
ここからが、俺たちが、この一年、血と汗と涙で築き上げてきた、『絆』の力が、試される場面だった。
次の打者、カイが、粘りに粘って、四球を選ぶ。
続くエルマが、美しい流し打ちで、ライト前にヒットを繋ぐ。
そして、ゼノが、相手の僅かな油断を突き、デッドボールで出塁する。
ツーアウトから、満塁。
繋いで、繋いで、繋ぎまくって、俺たちは、サヨナラの舞台を、作り上げた。
そして。
スタジアム中の、数万の観客の視線が、一つの場所に、注がれる。
ネクストバッターズサークルから、ゆっくりと、バッターボックスへと向かう、俺の背中に。
『9回裏、ツーアウト満塁! 一打逆転サヨナラのこの場面で、バッターは、4番、キャッチャー、キャプテンの、ソラ!』
アナウンサーの、興奮しきった声が、スタジアムに響き渡る。
地鳴りのような大歓声。
マウンドには、疲れを見せながらも、未だ、その瞳に獰猛な闘志を宿らせた、宿敵イグニス。
地方大会、決勝戦。
これ以上ない、最高の舞台だった。
俺は、バッターボックスで、ゆっくりと、バットを構える。
心臓が、うるさいくらいに、高鳴っている。
だが、不思議と、恐怖はなかった。
(……見てるか、みんな)
俺は、心の中で、仲間たちに語りかける。
(グラン。お前の腕の痛み、俺が引き受ける)
(バルガス。お前のパワー、俺に貸してくれ)
(エルマ、ゼノ、カイ、リコ、フィン……お前たちが繋いでくれた、この想い。絶対に、俺が、決める)
そして、俺は、転生前の、日本の空を思った。
俺のせいで、野球の夢を、壊してしまった、親友の顔を。
(……見ててくれ。俺が、お前と一緒に追い求めた、あの野球を。今、この世界で、完成させてみせるから)
俺は、すぅ、と息を吸い込む。
その瞬間、俺の周りから、全ての音が、消えた。
◇
マウンド上のイグニスもまた、極限の集中状態にあった。
彼の頭の中にはもう、小細工も、駆け引きも、存在しない。
ただ、目の前の、この生意気な人間のキャプテンを、己の最強の武器で、ねじ伏せる。
その、一点だけだ。
「―――ウオオオオオオオオオオオッ!」
獣の咆哮と共に、イグニスが、第一球を、投げ込んだ。
183km/h。
内角高めを抉る、暴力そのもののような、剛速球。
キィン!
俺は、それに、食らいついた。
凄まじい衝撃が、腕を駆け抜け、全身が痺れる。
だが、俺は、歯を食いしばり、その衝撃に耐えきった。
打球は、ファウルとなって、バックネットに突き刺さる。
「(……速い。そして、重い……!)」
「(だが、見える! 今の俺なら、見えるぞ!)」
二球目。
今度は、外角低め。
同じく、180km/hオーバーの、剛速球。
カン!
俺は、バットを短く持ち、カットする。
打球は、三塁側のベンチへと、一直線に飛び込んでいった。
ファウル。
三球目。
四球目。
五球目。
俺とイグニスの、魂の対決は、終わらない。
イグニスは、ただ、ひたすらに、剛速球を投げ込んでくる。
俺もまた、転生者としての知識、仲間との絆、その全てを懸けて、その一球一球に、食らいついていく。
ボールとバットが激しくぶつかり合う音が、何度も、何度も、スタジアムに響き渡る。
ファウル、ファウル、ファウル。
二人の、死闘は、続いていく。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
イグニスの肩が、大きく、上下している。
彼のスタミナは、もう、限界に近いはずだ。
俺の体力も、もう、ほとんど残っていない。手のひらの皮は破れ、血が滲んでいる。
「(……なぜだ)」
イグニスの、心の声が、その瞳から、伝わってくるようだった。
「(なぜ、折れない……! この人間は、なぜ、俺の力の前に、まだ立っている……!)」
そして、運命の、12球目。
イグニスは、残された、最後の、最後の力を振り絞り、この日一番の、雄叫びを上げた。
「―――オオオオオオオオオオオオオッ!」
彼が投げ込んだ渾身の一球は、全ての駆け引きを捨てた、ど真ん中への、一点の曇りもない、魂のストレートだった。
その、白球が、マウンドを離れた、瞬間。
俺の周りの、時間の流れが、極限まで、遅くなった。
全てが、スローモーションに見える。
飛んでくるボールの、赤い縫い目。
その、僅かな回転。
マウンドで、全てを出し尽くしたかのように、膝に手をつく、イグニスの姿。
ベンチで、祈るように、俺を見つめる、仲間たちの顔。
そして、俺の脳裏に、蘇る。
転生前の、日本の、夕暮れのグラウンド。
俺のせいで、夢を絶たれた、親友と、二人で、来る日も、来る日も、練習した、あの光景。
『いいか、ソラ。最高のバッターはな、最後に、何も考えないんだ』
『ただ、体が、心が、魂が、最高に気持ちいいと感じる、たった一つの、完璧な軌道で、バットを振るんだ』
『それが、お前の、理想のスイングだ』
―――そうだ。
これだ。
俺は、無意識に、笑っていた。
全ての恐怖も、後悔も、プレッシャーも、消え去った。
俺は、ただの、野球が好きな、少年に戻っていた。
俺は、かつて親友と、二人で追い求めた、あの、理想のスイングで、バットを、振り抜いた。
それは、俺が、この世界に来て、初めて、全てのトラウマを、完全に乗り越えた、瞬間だった。
―――カッッッッッ!!!!
世界に、それ以外の音は、なかった。
バットの芯と、ボールの芯が、完璧に、寸分の狂いもなく、一つになった、至高のインパクト音。
その、心地よい感触だけを、俺の掌に、残して。
第29球 本日22:30更新予定です。