第26球 反撃の狼煙
7回表が終わり、チェンジ。
スコアは、12-2。
絶望的な10点差。
だが、俺たちアークスのベンチを支配していた、あの鉛のような重い空気は、もうどこにもなかった。
俺の魂の叫び。
それに呼応した、仲間たちの魂の雄叫び。
俺たちは、絶望の淵で、これまでで最も強く、そして確かに、一つになったのだ。
「……円陣だ」
俺は、これから攻撃に向かう選手たちを、ベンチの前に集めた。
みんなの顔にはもう、諦めの色はない。傷つき、疲れ果ててはいるが、その瞳の奥には、死の淵から蘇った者だけが持つ、静かで、しかし燃えるような、闘志の炎が宿っていた。
俺は、集まった仲間たちの顔を、一人ひとり、ゆっくりと見渡した。
そして、深く、深く、頭を下げた。
「……悪かった、お前ら」
「……キャプテン?」
俺の突然の謝罪に、選手たちが戸惑いの声を上げる。
「俺は、間違っていた。グランがやられた時、俺は、また過去のトラウマに囚われて、お前たちのことを見えなくなっていた。怖かったんだ。俺の采配で、また誰かが壊れてしまうのが」
「……」
「だから、俺は、お前たちの力を、心の底から信じ切れていなかった。お前たちのその、理不尽で、最高にイカした個性を、俺のちっぽけな知識の箱の中に、無理やり押し込めようとしていたんだ」
そうだ。俺は、ずっと、この世界の理不尽さを恐れていた。
だが、本当の理不尽さは、俺自身の心の中にあったんだ。
「だから、ここから、俺は監督をやめる」
「……はあ!?」
「俺は、ただの、お前たちの力を信じる、一人のキャッチャーになる。だから、お前たちも、もう俺のサインを待つな。自分の本能で、自分の魂で、プレーしろ!」
俺は、吹っ切れた顔で、笑って見せた。
「もう小細工はなしだ! 奴らの理不尽な『暴力』には、俺たちの理不尽な『個性』を、真正面からぶつけてやる!」
俺は、一人ひとりに、最後の『解放』の言葉を告げていく。
「バルガス!」
「おう!」
「もう繋ぎなんて考えるな! お前の仕事はただ一つ、ボールを、この惑星の彼方までかっ飛ばすことだ! 狙え、場外ホームラン!」
「がっはっは! 任せとけ! それなら、誰にも負けねえぜ!」
「カイ!」
「ニャんだい、キャプテン!」
「リードの幅も、スタートのタイミングも、全部お前に任せる! グラウンドを、お前の庭にしてしまえ! ダイヤモンドを、ズタズタに切り裂け!」
「ニャはは! 面白くなってきた! あのトカゲ野郎どもを、てんてこ舞いさせてやるニャ!」
「エルマ!」
「……はい」
「もう流し打ちなんて窮屈なことはするな! お前のその、世界で一番美しいスイングで、ボールを、芸術品のように射抜いてみせろ!」
「……ふん。言われずとも、そのつもりですわ」
「ゼノ!」
「……やれやれ」
「面倒なサインプレーはもうない! お前のその魔法剣のように、誰も予測できない、お前だけのプレーで、奴らを幻惑しろ!」
「……仕方ありませんね。たまには、本気を出して差し上げましょう」
俺の言葉に、選手たちの本能が、解き放たれていく。
これまで俺の戦術に、文句を言いながらも従ってきた選手たちが、まるで檻から放たれた猛獣のように、その瞳を、ギラギラと輝かせ始めた。
◇
7回裏、アークスの攻撃。
相手のマウンドには、エースのイグニスではなく、控えの投手が上がっていた。
10点差という大差のリードに、ヴルカニアは、完全に、油断しきっていた。
その油断が、命取りになることを、彼らはまだ、知らない。
この回の先頭打者は、2番のカイ。
彼は、バッターボックスに入ると、まるでこれからじゃれ合うかのように、楽しそうな笑みを浮かべていた。
「(もう、サインなんて待ってられないニャ!)」
「(体が、勝手に……!)」
相手投手が投げた、気の抜けた初球のストレート。
カイは、セーフティバントの構えから、相手投手が投げた、その瞬間に、ヒッティングに切り替えた。
バスターだ。
カン!
打球は、平凡なサードゴロ。
だが、次の瞬間。
カイの体が、まるで地面を滑るかのように、爆発的に加速した。
相手のサードが、ボールを捕球し、一塁へ投げようとした時には、カイは、すでに、一塁ベースを駆け抜けていた。
「セーフ!」
神速が生んだ、内野安打。
そして、ここからが、カイの独壇場だった。
一塁に出たカイは、常識では考えられないほど、大きなリードを取る。
相手投手が、慌てて牽制球を投げる。
だが、カイは、猫のようにしなやかな動きで、嘲笑うかのように、ひらりと一塁へ戻る。
「ニャはは! 遅い、遅い!」
彼は、完全に、相手バッテリーを、おもちゃにして遊んでいた。
スタートを切るか、切らないか。その絶妙なフェイントを繰り返し、相手の神経を、じわじわと、すり減らしていく。
そのかく乱によって、相手投手のコントロールは、面白いように乱れ始めた。
続くリコが、泥臭く、四球を選ぶ。
フィンが、執念で、ライト前にヒットを繋ぐ。
ノーアウト・満塁。
死んでいたはずのアークス打線が、突如として、繋がり始めた。
そして。
満を持して、俺たちの『最終兵器』が、バッターボックスへと向かう。
4番、バルガス。
「(待ってたぜ……この時を……!)」
彼のモノローグが、その背中から立ち上る、灼熱のオーラと共に、俺のところまで伝わってくる。
「(キャプテン……! あんたの期待、絶対に、裏切らねえ!)」
ヴルカニアのベンチは、ここでようやく、慌てて投手をエースのイグニスに戻そうとする。
だが、もう遅い。
一度燃え上がった、俺たちの反撃の炎は、誰にも、もう止められない。
控え投手は、バルガスの凄まじい気迫に完全に呑まれ、恐怖から、逃げるような、甘いボールを、投げてしまった。
ど真ん中、絶好のストレート。
その瞬間を、バルガスが見逃すはずがなかった。
彼は、これまで抑えつけられていた、全ての破壊衝動を、その一振りに、解放した。
「―――ウオオオオオオオオオオオッ!」
ゴッッッ!!!
スタジアム中の空気が、震えた。
ボールが、バットに当たった、その瞬間に、甲高い金属音ではなく、まるでボールそのものが、悲鳴を上げたかのような、鈍い破壊音が響き渡った。
白球は、凄まじい速度と、信じられないほどの角度で、天高く舞い上がる。
ヴルカニアの選手たちが、呆然と、その軌跡を見上げていた。
打球は、あっという間に、バックスクリーンを遥かに越え、その上部にある、巨大なスコアボードに、直撃した。
―――バキイイイイイイイイイイン!!!
凄まじい音と共に、魔力水晶で作られたスコアボードが、粉々に、砕け散った。
満塁、ホームラン。
スコアは、12-6。
一瞬の静寂の後、スタジアムは、割れんばかりの、地鳴りのような大歓声に包まれた。
諦めムードだった観客たちが、総立ちになり、アークスの、信じがたい猛追に、熱狂し始めている。
ヴルカニアのベンチには、初めて、本物の「焦り」の色が浮かんでいた。
彼らは、死んだはずの相手が、不死鳥のように蘇ってきたことに、全く、理解が追いついていない。
俺は、ベンチで咆哮する仲間たちの姿を見つめ、静かに、しかし、力強く、拳を握りしめた。
「(そうだ……これが、俺たちの野球だ……!)」
反撃の狼煙は、今、確かに、上がった。