第25球 キャプテンの叫び
―――ザアアアアアア……。
7回表、ヴルカニアの攻撃。
決定的な追加点を奪われ、スコアボードの数字が「12-2」に変わった瞬間、俺の中で、何かが、ぷつりと、音を立てて切れた。
もう、何も聞こえない。
鳴りやまないはずの、ヴルカニアの応援のドラムも、咆哮も。
味方ベンチからかろうじて飛んでいた、力ない声援も。
全てが、分厚いガラスの向こう側にあるかのように、遠い。
俺は、キャッチャーとして、監督として、ただ、グラウンドに立ち尽くしていた。
マウンドの上では、緊急で登板した控えの野手が、呆然と、ホームベースを見つめている。
彼の瞳にはもう、闘志の色はない。ただ、恐怖だけが、色濃く浮かんでいた。
俺は、タイムを取ることすら、忘れていた。
いや、タイムを取って、何を伝えればいいのか、もう、分からなかった。
俺の心は、完全に、そして深く、折れかかっていた。
アークスのベンチは、もはやお通夜そのものだった。
誰もが、うなだれ、自分の足元を見つめている。
グランは、治療を受けながらも、悔しさに顔を歪め、壁を睨みつけている。
バルガスは、自慢のパワーを発揮する機会すら与えられず、ただ、唇を噛みしめている。
エルマ、ゼノ、カイ……誰もが、この圧倒的な暴力の前に、自分たちの無力さを、骨の髄まで、思い知らされていた。
スタジアムの観客も、もう俺たちを見てはいなかった。
誰もが、この一方的な試合の結末を確信し、興味を失い始めている。
「もう終わりだな、こりゃ」
「可哀想に、心が折れちまってる」
「決勝戦が、こんなつまらない試合になるとはな」
そんな、憐れみの声が、ベンチまで聞こえてくる。
悔しい、とすら、もう思えなかった。
その、絶望的な沈黙を、破ったのは――。
一人の、何の特別な力も持たない、ただの人間の、叫びだった。
◇
「―――下を向くなァァァァッ!」
ベンチの隅で、これまで黙ってスコアをつけていたフィンが、突然、椅子を蹴立てて立ち上がった。
彼は、手に持っていたペンを、バキリと音を立ててへし折ると、声を、震わせながら、叫んだ。
「ちくしょう……ちくしょう……! なんなんだよ、この空気は! まだ試合は終わってねえだろ! まだ、アウトカウントは、残ってるだろうが!」
その魂の叫びに、うなだれていた選手たちが、ハッと顔を上げる。
フィンは、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、呆然と立ち尽くす俺を、まっすぐに指差した。
「ソラ! あんたが諦めてどうするんだ!」
「……!」
「思い出せよ! お前、なんでまた野球始めたんだよ! 俺は、そんな顔してるお前を見たくて、このチームに入ったんじゃねえんだぞ……!」
フィンの言葉が、分厚いガラスを突き破って、俺の心に、突き刺さる。
そして、その叫びは、まるで起爆剤のように、死んでいたはずの仲間たちの心に、次々と、火を灯していった。
「そうだぜ!」
次に立ち上がったのは、バルガスだった。
彼は、地面に叩きつけていた自分のグラブを拾い上げ、力強く叫んだ。
「フィンの言う通りだ! まだ俺の腕は折れちゃいねえ! 身体だってピンピンしてる! このまま、何もせずに負けるくらいなら、前のめりに倒れた方が、よっぽどマシだ!」
「……親方」
ベンチの奥。
アイシングをしながら蹲っていたグランが、負傷した腕を押さえながら、ゆっくりと、しかし、確かに、立ち上がった。
「ワシは……もう、投げられねえ。だが、声なら、まだ出せる。ワシの分まで、戦ってくれ……! お前たちなら、まだ、やれるはずだ……!」
「……みっともないですわね」
冷ややかに呟いたのは、エルマだった。だが、その瞳には、いつもの侮蔑の色ではなく、静かだが、燃えるような、誇りの炎が宿っていた。
「エルフは、最後まで、気高くあるべきです。こんな無様な姿、里の者たちに、見せられませんわ」
「やれやれ……」
ゼノが、わざとらしくため息をつく。
「熱血というのは、どうも性に合わないのですがね。ですが、このまま一方的に嬲られるのは、もっと、私の美学に反する」
「ニャーんか、面白くなってきたニャ」
いつの間にか、カイが、楽しそうな顔で、俺の隣に立っていた。
「ここから逆転したら、俺たち、伝説になるんじゃニャい?」
次々と、選手たちが立ち上がる。
リコが、フィンが、シルフィが。
誰もが、傷つき、打ちのめされ、それでも、まだ、諦めてはいなかった。
彼らの視線が、ただ一人、まだ立ち上がれないでいる、キャプテンの俺に、突き刺さる。
それは、もはやただのチームメイトからの言葉ではなかった。
種族も、性格も、価値観も違う、一人ひとりの仲間からの、魂のメッセージだった。
◇
仲間たちの声が、閉ざされていた俺の心の扉を、少しずつ、しかし確実に、こじ開けていく。
俺の視界が、徐々に、色を取り戻していく。
モノクロだった世界に、仲間たちの、泥だらけのユニフォームの色が、瞳の奥に宿る闘志の色が、鮮やかに、鮮やかに、映り始める。
「(……ああ、そうか)」
「(俺は、なんて、馬鹿だったんだ)」
「(また、一人で戦おうとしていた。一人で、絶望していた)」
「(でも、俺は、一人じゃなかったんだ……!)」
俺は、自分の弱さが、チーム全体の心を、折りかけていたことに気づいた。
そして、そんな、どうしようもなく情けない俺を、この、どうしようもなく不格好で、最高の仲間たちが、必死で、引き上げようとしてくれていることに、気づいた。
「……う……」
喉の奥から、熱い塊が、こみ上げてくる。
俺は、溢れそうになる涙を、必死に、必死に、こらえた。
そして、重い、重いキャッチャーマスクを、自らの手で、外した。
俺は、ゆっくりと、立ち上がる。
そして、これまで見せたことのない、感情を、完全に剥き出しにした表情で。
初めて、心の底から、この世界の仲間たちに、助けを求めて、叫んだ。
「――ごめん……みんな……!」
「……!」
「力を、貸してくれッ!」
俺は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも、笑って見せた。
「俺たちのアークス(野球)で、あいつらを、あの理不尽な暴力を、絶対に、絶対に、倒すぞ!」
その言葉に、呼応するように。
仲間たちが、これまでで、最も力強い、魂の雄叫びを、上げた。
「「「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」」」
その瞬間、俺たちアークスは、絶望の淵から、完全に、一つになった。
反撃の狼煙が、今、確かに、上がった。