第24球 崩壊への序曲
エースの、無念の降板。
トレーナーに肩を貸され、悔し涙に濡れながらベンチへと下がっていくグランの姿に、俺たちアークスの選手たちは、言葉を失っていた。
スコアは、まだ3回だというのに、7-0。
そして、俺たちの心の大黒柱だった男が、今、目の前で、打ち砕かれた。
ヴルカニアの応援席から響き渡る、勝利を確信したかのような、獣の咆哮。
ベンチの中は、まるで氷水に浸されたかのように、冷たく、重い沈黙に支配されていた。
「……くそっ」
バルガスが、自分のグラブを、怒りに任せて地面に叩きつける。
「なんだってんだよ、あいつらのパワーは……! あんなもん、野球じゃねえ! ただの暴力じゃねえか!」
「……」
誰も、その言葉に、返すことができない。
そうだ。これは、もはや野球の試合ではなかった。
俺たちがこれまで積み上げてきた戦術も、技術も、絆さえも、あの圧倒的な『暴力』の前には、あまりにも無力だった。
(俺の、せいだ……)
俺は、キャッチャーマスクの下で、強く、強く、唇を噛みしめていた。
(俺が、もっとうまくリードしていれば……グランを、あんな危険な勝負に晒すことはなかったんじゃないのか……?)
(そうだ、あの時、俺がもっと……)
―――やめろ。
脳裏に、あの日の記憶が、黒い染みのように、じわりと広がっていく。
俺の知識を信じてくれた親友。
俺が、壊してしまった、あいつの未来。
「(まただ……また、俺は、仲間を……!)」
「ソラ!」
フィンの声で、俺はハッと我に返る。
「……次のピッチャー、どうするんだ!?」
「……あ……」
そうだ。試合は、まだ終わっていない。
俺は、監督だ。キャプテンだ。
この絶望的な状況で、次の手を、打たなければならない。
(落ち着け……冷静になれ、俺……!)
(フィンが、言ってくれたじゃないか。俺は、もう一人じゃないんだ、と……!)
俺は、必死で、仲間の顔を見渡した。
だが、彼らの瞳に宿っていたはずの闘志の光は、今はもう、絶望の闇に飲み込まれかけている。
(ダメだ……この雰囲気を、なんとか、変えなければ……!)
(一発逆転の、何か……セオリーを無視した、誰もが驚くような一手が……!)
焦り。
その焦りが、俺の冷静な判断力を、急速に蝕んでいった。
俺は、本来であれば、この場面、最も安定感のある、人間族のフィンをマウンドに送るべきだった。
だが、今の俺には、その「堅実な一手」を選ぶ勇気がなかった。
俺は、この最悪の流れを断ち切るための、「奇跡」を求めてしまっていた。
俺は、ベンチの隅で、冷ややかに戦況を見つめていた、一人の男に声をかけた。
「……ゼノ」
「……何です? キャプテン」
「お前が、マウンドに上がれ」
「…………は?」
その瞬間、ベンチにいた全員が、俺の顔を、信じられないという目で見つめた。
ゼノ本人ですら、その皮肉な笑みを消し、唖然とした表情を浮かべている。
「正気ですか、あなたは。私が、ピッチャー? 冗談にもほどがある」
「冗談じゃない」
俺は、早口で続けた。
「お前の、その魔法剣の剣術。あれを、投球に応用しろ。相手の意表を突く、トリッキーな軌道のボールで、あいつらを幻惑するんだ。お前なら、できるはずだ」
それは、もはや「采配」ではなかった。
ただの、根拠のない、藁にもすがるような「願望」だった。
ゼノは、深く、深いため息をつくと、やれやれとでも言いたげに、マウンドへと向かっていった。
◇
結果は、火を見るより、明らかだった。
専門外であるゼノの投球は、確かに、最初はヴルカニアの打者を戸惑わせた。
ボールは、まるで生き物のように、不規則に揺れ動き、時には、ホップするように浮き上がった。
だが、それも、最初の数球だけ。
ヴルカニアの獣人たちは、その野生の勘で、ゼノのトリッキーな軌道に、すぐに対応してみせた。
ガキィィン!
凄まじい金属音と共に、ゼノの投げた変化球が、外野の遥か彼方へと消えていく。
追加点。
さらに、次の打者にも、その次の打者にも、痛打を浴びる。
「くそっ……!」
俺は、さらに焦った。
「ピッチャー交代だ! カイ、お前が行け! その俊敏性を活かして、横から、変則的に投げろ!」
「ニャんで俺がピッチャーなんだニャ……! めんどくさい……!」
俺の采配は、もはや「賭け」ですらなく、ただの「混乱」に陥っていた。
監督である俺自身の動揺が、ウイルスのように、チーム全体へと、急速に伝染していく。
守備の連携は、完全に崩壊した。
簡単な内野ゴロを、リコとカイが、お互いに譲り合って、エラーする。
外野フライを、エルマとフィンが、お見合いして、落球する。
まるで、あの惨敗した、最初の練習試合の時に、逆戻りしてしまったかのようだった。
「どうなってんだよ! なんでこんなに打たれんだ!」
バルガスの、苛立ちを隠せない怒声が、ベンチに響く。
「ニャーんか、もうどうでもよくなってきたニャ……。早く帰って、昼寝がしたい……」
カイは、完全に集中力を失い、外野の芝生の上で、寝転がり始めている。
「……これが、私たちの限界というわけですのね」
エルマは、冷ややかに、そう呟き、諦めたように、空を見上げていた。
俺は、ベンチで、完全に、孤立していた。
誰も、俺の顔を見ようとしない。
俺の指示に、耳を傾けようともしない。
俺は、ただ呆然と、目の前で、自分が作り上げたはずのチームが、バラバラに、破壊されていくのを、眺めているだけだった。
「(俺が……俺が、このチームを、壊しているのか……?)」
「(あの時と、同じように……?)」
◇
試合は、中盤を過ぎ、7回表、ヴルカニアの攻撃。
ついに、決定的な追加点を奪われ、スコアボードには、「12-2」という、残酷なまでの数字が、刻みつけられた。
誰もが、敗戦を確信する点差。
マウンドには、もはや投げる投手もおらず、控えの野手が、ただ、棒球を投げ込んでいるだけだった。
その投手が、力なく、呆然と、立ち尽くしている。
俺は、タイムを取ることすら、忘れていた。
いや、タイムを取って、何を伝えればいいのか、もう、分からなかった。
俺の瞳からは、完全に、光が消えていた。
俺の心は、完全に、そして深く、折れかかっていた。
やかましかったはずの、ヴルカニアの応援すら、どこか遠くに聞こえる。
目の前にある、絶望的なスコアボードだけが、俺の、完全な敗北を、静かに、そして冷酷に、告げていた。