第23球 暴力と野球
地方大会決勝戦、当日。
俺たちアークスがロッカールームで最後の準備をしていると、スタジアムの外から、地鳴りのような音が、ズン、ズン、と響いてきた。
それは、巨大な軍隊の行進を思わせる、腹の底に響くドラムの音。
そして、それに合わせるかのような、数千の獣たちが同時にあげる、鬨の声。
「……なんだ、この音は」
リコが、不安そうに顔を上げる。
「ヴルカニアの、応援だ」
俺が答えると、ロッカールームの空気が、シンと静まり返った。
そうだ。あれは応援じゃない。試合開始前から、相手の戦意を削ぎ、恐怖を植え付けるための、純粋な『威嚇』だった。
チームに、これまでにない異様な緊張感が走る。
前夜、俺がフィンに救われたことは、誰も知らない。だが、俺の表情から、何かを察してくれているのだろう。選手たちは、誰一人として、弱音を吐かなかった。
「……行くぞ」
俺は、最後のミーティングのために、選手たちを集めた。
もう、小難しい戦術の話はしない。
「いいか、今日の相手に、俺たちのこれまでの戦い方は、おそらく通用しない。データも、ほとんど意味がないだろう。信じられるのは、ただ一つ。――俺たちの、絆だけだ」
俺は、仲間たちの顔を、一人ひとり、見渡した。
頑固者のドワーフ、脳筋のミノタウロス、プライドの高いエルフ、ひねくれ者のダークエルフ、気分屋の獣人、臆病なホビット、無口な精霊、そして、特別な力を持たない人間。
なんて、不格好で、頼もしいチームだろうか。
「どんなに殴られても、どんなに打ちのめされても、絶対に、下を向くな。最後まで、グラウンドに立っていた方が、俺たちの、勝ちだ」
「「「応っ!!」」」
俺たちは、一つの塊となって、決戦のグラウンドへと向かう。
その通路で、俺は、宿敵の男とすれ違った。
ヴルカニアのエースで4番、リザードマンのイグニス。
彼は、俺の横で立ち止まると、その爬虫類のような、感情の読めない冷たい瞳で、俺を一瞥した。
「……アークランドの、人間か」
彼の口から漏れたのは、まるで地を這うような、低い声だった。
「随分と、楽しそうに『お遊戯』を続けてきたようだが……それも、今日で終わりだ」
「……どうかな」
「力の前には、知恵も、絆も、全てが無力だと知るがいい。お前たちの野球は、俺が、ここで終わらせてやる」
それだけを言うと、イグニスは、俺に興味を失ったように、グラウンドへと去っていった。
その背中から放たれる、圧倒的なプレッシャーに、俺は、ゴクリと唾を飲んだ。
◇
「プレイボール!」
審判のコールと共に、地方大会決勝戦の火蓋が切って落とされた。
1回表、アークスの攻撃。
マウンドには、もちろん、イグニスが立っていた。
1番のリコが、緊張した面持ちでバッターボックスに入る。
イグニスは、ワインドアップモーションから、その恐竜のような、太くしなやかな腕を、鞭のように振り抜いた。
―――ヒュオッ!
ボールが、空気を切り裂く、異常な音がした。
そして、次の瞬間。
俺の構えたミットの、遥か上を、白球が通過し、バックネットに突き刺さった。
「うわっ!?」
リコは、その風圧だけで、腰を抜かして尻餅をつく。
スコアボードに表示された球速は――181km/h。
「(……なんだ、今の球は……!?)」
俺は、ミットを構えたまま、呆然としていた。
「(速い…! だが、それだけじゃない。生き物のように、不規則に暴れてやがる……! コントロールできていないのか? いや、違う……あれは、意図的に、打者の恐怖心そのものを、抉り取るための……!)」
リコは、立つことができない。
続くカイも、ゼノも、その荒れ狂う暴力のような剛速球の前に、手も足も出ず、三者連続三振に倒れた。
しかも、ただの三振ではない。
カイは、バットをへし折られ、ゼノは、恐怖で体が完全に固まり、見送ることしかできなかった。
俺たちの攻撃は、たった9球で、完璧に、沈黙させられた。
そして、1回裏、ヴルカニアの攻撃。
マウンドに上がったアークスのエース、グランは、しかし、闘志を失っていなかった。
「親方! 見たか、今の! あんなの、ただの暴投じゃねえか! ワシの、洗練されたコントロールの方が、よっぽど上だ!」
その言葉は、頼もしかった。
だが、俺たちの希望は、次の瞬間に、粉々に打ち砕かれることになる。
ヴルカニアの1番打者、虎族の獣人が、獰猛な笑みを浮かべて、バッターボックスに入ってきた。
グランが、渾身の力を込めて、第一球を投じる。
地を這うような、彼の得意なサブマリン投法。
だが、虎族の打者は、その低い軌道のボールを、まるで待っていたかのように、アッパースイングで、完璧に捉えた。
ゴシャッ!
木が、根元からへし折れるかのような、凄まじい破壊音が、スタジアムに響き渡った。
打球は、ライナー性の、暴力的な『直線』となって、俺たちアークス外野陣の頭上を、あっという間に越えていく。
フェンスに、突き刺さった。
先頭打者、初球、ホームラン。
戦術も、駆け引きも、そこにはない。
ただ、純粋な『暴力』だけが、俺たちアークスに、牙を剥いていた。
◇
その後も、ヴルカニアの猛攻は、止まらなかった。
グランは、必死に食らいついた。 彼は、俺のリード通り、緩急をつけ、コースを突き、ゴルダ戦で見せたような、技巧的なピッチングを試みた。
だが、ヴルカニアの獣人たちは、その規格外のパワーと、野生の反射神経で、俺たちの組み立てを、いとも簡単に、粉砕していく。
痛烈な打球が、何度も、何度も、グランの体を襲った。
そして、3回裏、ツーアウト・ランナー三塁。
バッターボックスに、イグニスを迎えた場面で、ついに、限界が来た。
グランは、残された最後の力を振り絞り、渾身の一球を、インコース低めへと投げ込んだ。
完璧なボールだった。
だが、イグニスは、そのボールを、まるで虫けらを払うかのように、片手で、軽々と打ち返した。
打球は、凄まじい速度のピッチャーライナーとなって、グランの体を、めがけて飛んでいく。
「グラン! 避けろ!」
俺が叫ぶ。
だが、間に合わない。
グランは、投手としての本能で、グラブを差し出した。
ドッ!
鈍く、肉を抉るような音が、マウンドに響き渡った。
グランは、その場に、崩れ落ちる。
彼の投げきった左腕を、ボールが、直撃したのだ。
「グラン!」
「グランさん!」
俺たちがマウンドに駆け寄ると、グランは、苦痛に顔を歪めながら、折れたかのような左腕を押さえて、蹲っていた。
骨までは、いっていなかった。
だが、その腕は、ドワーフの屈強なそれとは思えないほど、見るも無残に、紫色に腫れ上がり、続投は、絶望的だった。
トレーナーに肩を貸され、ベンチへと下がっていくグランは、俺の前で、足を止めた。
そして、その瞳から、悔し涙を、ぼろぼろと、こぼした。
「……すまねえ、親方……」
「……」
「ワシは……エース失格だ……」
俺は、彼に、何と声をかければいいのか、分からなかった。
「……お前は、よくやった。あとは、俺たちに任せろ」
そう言うのが、精一杯だった。
スコアボードには、既に「7-0」という、絶望的な点差が刻まれている。
エースの、無念の降板。
鳴りやまない、ヴルカニアの、勝利を確信したかのような、ドラムの音と、咆哮。
それはもはや、野球の試合ではなかった。
俺は、これから始まる、長い、長い絶望を予感し、自分の無力さに、ただ、唇を噛みしめることしか、できなかった。