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第22球 独りじゃない

地方大会決勝戦の前夜。

作戦司令室の冷たい石の床に、俺は一人、座り込んでいた。

部屋には、俺が転生前の世界から持ち込んだ、唯一の財産である野球理論書や、この世界に来てから書きためた戦術ノートが、乱雑に散らばっている。

壁一面に貼り付けられた、宿敵『ヴルカニア・バーサーカーズ』のデータシートが、まるで俺の無力さを嘲笑うかのように、静かに俺を見下ろしていた。


「(……無理だ)」


何度、思考を巡らせても、何度、シミュレーションを繰り返しても、答えは同じだった。


「(どうやっても、勝てない……)」


イグニスの、180km/hを超える荒れ狂う剛速球。

獣人たちの、常識を粉砕するフルスイング。

俺の知識は、俺のセオリーは、あの絶対的な『暴力』の前では、あまりにも脆く、あまりにも無力だ。


脳裏に、最悪の光景が、何度も何度も、繰り返し再生される。

グランの自慢の腕が、イグニスの痛烈なライナーを受けて、へし折れる光景。

バルガスの純粋な自信が、イグニスの見たこともない剛速球の前に、粉々に打ち砕かれる光景。

仲間たちが、血と泥にまみれて、グラウンドに倒れ伏す光景。


「(俺は、また、仲間を壊してしまうのか……?)」


そうだ。

あの時と、同じじゃないか。

俺の独りよがりな知識を信じてくれた、たった一人の親友。

彼を、俺が、この手で、壊してしまった、あの忌まわしい日と。


「う……あ……」


息が、うまくできない。

喉の奥から、乾いた嗚咽が漏れる。

俺は、監督失格だ。いや、それ以前に、転生者として、この世界にいること自体が、間違いだったのかもしれない。


「(誰も、俺のこの苦しみを理解できない)」

「(日本の野球を知らないこの世界の奴らに、この絶対的な戦力差がもたらす絶望が、分かるはずがないんだ……!)」


孤独だった。

心の底から、孤独だった。

俺は、握りしめていた作戦ノートを、ぐしゃぐしゃに握りつぶすと、壁に向かって、力任せに叩きつけた。


                 ◇


どれくらいの時間、そうしていただろうか。

俺は、誰にも会いたくなくて、作戦室を抜け出し、夜中のグラウンドへと向かっていた。

月明かりだけが、静かにマウンドを照らしている。

俺は、まるで何かに憑かれたように、バットを握りしめ、一人で、素振りを始めた。


一振り、また一振り。

だが、そのスイングには、迷いと、恐怖が、色濃くまとわりついていた。

バットが、鉛のように重い。

ヴルカニアの圧倒的なパワーを前に、俺の体は、完全に萎縮してしまっていた。


「……まだ、起きてたのか、キャプテン」


不意に、背後から、穏やかな声がかけられた。

振り返ると、そこには、同じ人間族で、俺の数少ない幼馴染でもある、フィンが立っていた。


「……フィンか。お前こそ、早く寝ろよ。明日は、決勝だぞ」

「お前が、そんな幽霊みたいな顔してたら、寝れるわけないだろ」


フィンは、俺の隣に、どかりと腰を下ろすと、俺と同じように、夜空を見上げた。

しばらく、沈黙が流れる。


「……お前さ」

やがて、フィンが、ぽつりと呟いた。

「また、昔の顔になってるぞ。全部、一人で背負い込んで、勝手に潰れようとしてる、馬鹿の顔だ」

「……うるさいな」

俺は、ぶっきらぼうに返す。

「俺は、監督で、キャプテンだ。背負うのが、仕事だろ」


「馬鹿野郎」


フィンの、静かだが、有無を言わさぬ声が、夜の空気に響いた。

「お前は、監督である前に、キャプテンである前に、俺たちの、ただの『仲間』だろうが」

「……!」


俺は、言葉に詰まる。

フィンは、そんな俺の心を、見透かすように、続けた。


「俺にはさ、グランみたいな、岩をも砕くパワーもねえ。カイみたいな、風を追い越すスピードもねえ。お前みたいに、頭も良くない。特別な能力なんて、何一つ持ってない、ただの人間だ」

「……フィン……」

「でもな、ソラ。俺は、お前が、同じただの人間だから、お前のチームにいるんだぜ」


その言葉の意味が、俺には、すぐには理解できなかった。


「俺たち人間は、弱い。ドワーフの腕力にも、エルフの魔力にも、獣人の身体能力にも、到底かなわない。だから、知恵を絞るんだ。だから、仲間と助け合うんだ。違うか?」

「……」

「お前が、その『日本』とかいう、俺にはよく分からん場所で学んできた野球って、本当は、そういうもんなんだろ?」


フィンの瞳が、まっすぐに、俺を射抜く。


「一人の天才が、全部をやるんじゃない。俺みたいな凡人も、リコみたいなチビも、それぞれの役割を果たして、みんなで、泥だらけになって、一つの勝利を掴み取る。――それが、お前が俺たちに、教えてくれた野球じゃなかったのかよ」


―――ドクン。


俺の心の奥底で、何かが、大きく脈打った。


フィンは、ゆっくりと立ち上がると、俺の肩を、強く、バンと叩いた。


「忘れたのか? お前はもう、一人じゃないだろ」

「……」

「お前の後ろには、お前の無茶な指示を、文句言いながらも、心の底じゃ信じてくれてる、どうしようもなく変なヤツらが、たくさんいるんだぜ」


その言葉は、まるで魔法のように、俺の心の奥底にまで、深く、深く、染み渡っていった。

そうだ。

俺は、いつの間にか、忘れていた。

転生者であることに固執し、この世界の仲間たちを、心のどこかで、自分とは違う存在だと、見下していたのかもしれない。


俺を、孤独の淵から救い出してくれたのは、転生者としてのチート能力じゃない。

俺と同じ、特別な力を持たない、ただの人間である、フィンの、この温かい言葉だった。


「(……そうか)」


「(俺は、一人じゃ、なかったんだ……)」


その瞬間、俺の中で、張り詰めていた何かが、ぷつりと、音を立てて切れた。

目から、熱いものが、勝手に、溢れ出してくる。

それは、この世界に来て、俺が初めて流す、弱さの涙であり、そして、救いの涙だった。


                 ◇


俺は、子供のようにしゃくり上げながら、ぐいと、腕で涙を拭った。

そして、心配そうに俺を見守っていたフィンに、照れ隠しで、笑いかけてやった。


「……ああ、そうだな。ありがとう、フィン。助かった」


俺の顔にはもう、絶望の色はなかった。

ヴルカニアへの恐怖が、消えたわけじゃない。

だが、その恐怖ごと、仲間たちと分かち合う覚悟が、確かに、できていた。


俺は、東の空を見上げた。

夜の闇を破って、力強い、朝日の光が差し込み始めている。


「(見てろよ、イグニス。俺たちの武器は、パワーでも、技術でも、俺一人の知識でもない)」


俺は、仲間たちが待つ、ロッカールームの方向を、強く見据えた。


「(――俺たちの、このチームの、『絆』の力だ!)」


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