第19球 勝利の代償
キャプテン・キッドの奇策を、俺たちの『逆トリック』が打ち破った。
あのビッグプレーによって、試合の流れは、完全に、そして決定的に、俺たちアークスへと傾いた。
これまで余裕の表情を崩さなかったアクアリアの選手たちに、明らかな焦りが生まれる。彼らの十八番であるはずの『騙し合い』の土俵で、正面からねじ伏せられたのだ。その精神的ダメージは、計り知れない。
対する俺たちは、勢いに乗っていた。
ソラのトラウマからの復活、ルーナの覚醒、そしてチームの結束。
これまでバラバラだった歯車が、今、ようやく、一つの大きな力として噛み合い始めた。
8回裏、俺たちはついに同点に追いつく。
そして、運命の最終回、9回裏。
スコアは1-1の同点。
「さあ、ここで決めんぞ、お前ら!」
「サヨナラ勝ち、いくぜ!」
ベンチのボルテージは最高潮に達していた。
この回の先頭打者、人間族のフィンが、彼の持ち味である驚異的な粘りを見せる。
ファウル、ファウルで相手投手のスタミナを削り、10球以上投げさせた末に、根負けした相手から四球を選び取った。
「よっしゃあ、フィン! よくやった!」
「ナイス粘り!」
続くリコが、俺のサイン通り、きっちりと送りバントを決める。
ワンアウト・ランナー二塁。
次の打者が凡退し、ツーアウト・ランナー二塁。
一打サヨナラの、絶好のチャンス。
そして、バッターボックスには、あの男が、いつもの面倒くさそうな、気だるげな足取りで向かっていった。
――5番、三塁手、ダークエルフのゼノ。
彼は、この試合、まだヒットこそないものの、そのトリッキーなバットコントロールで、相手を何度も苛立たせていた。
だが、そのプレーのどこかには、常に一枚、見えない壁がある。
決して、本気を出さない。チームのために、体を張らない。
常に、自分の安全圏の中から、ゲームを達観しているかのような、冷めたプレー。
それが、ゼノという男だった。
「(……この場面、どうする)」
俺は、キャッチャーマスクの下で、思考を巡らせる。
「(相手バッテリーは、長打を警戒して、外角中心の慎重な攻めになるはずだ。だが、ゼノの奴、まともにストレートに振り合うか…? 下手に当てにいって、力のない内野ゴロでゲームセット。それが、最悪のパターンだ……)」
俺は、ゼノの性格と、彼の持つ『魔法剣の使い手』としての、超人的な技術の両方を考慮し、一つの結論に達した。
この土壇場で、このひねくれ者だからこそ成功させられる、最大の奇策。
俺は、ゼノにサインを送った。
親指、人差し指、中指。俺が作り上げた、複雑なサインの一つ。
その意味は、『バスター』。
バントの構えから、相手守備陣が前に突進してきた、その瞬間。ヒッティングに切り替えて、がら空きになった内野の頭を越す、奇襲戦法だ。
バッターボックスのゼノは、俺のサインを見ると、やれやれとでも言いたげに、小さく肩をすくめた。
「(……本当に、面倒なことを、考えつく)」
ゼノの心の声が聞こえるようだ。
彼がなぜ、本気を出さないのか。その理由は、俺も詳しくは知らない。
だが、彼のその瞳の奥には、他者への、そしてこの世界そのものへの、深い不信感が渦巻いているのを、俺は感じていた。
ダークエルフという、光と闇の狭間に生まれた種族。彼らが、これまでの長い歴史の中で、どれほどの裏切りと、差別に晒されてきたことか。
「(……信じられるのは、自分だけ。チームも、仲間も、所詮は一時的な利害の一致に過ぎない)」
きっと、彼はそう思っている。
だが、同時に、俺には分かっていた。
ゴルダ戦での、バルガスの理屈抜きのホームラン。
シルヴァニア戦での、エルマの涙と、小さな微笑み。
そして、さっき、俺が絶望の淵にいた時の、ルーナの魂の叫び。
このチームに生まれ始めた、不格好で、泥臭く、しかし本物の『熱』に、彼のその凍りついた心が、ほんの少しだけ、動かされていることにも。
「(まあ、いいだろう。たまには、あの転生者のキャプテンが描く、お遊戯の主役を、演じてやるのも、悪くないか)」
ゼノは、俺の意図を正確に理解し、わざと、これ以上ないくらい、やる気のない態度で、バントの構えに入った。
その姿は、もはや戦意を喪失し、ただ試合を早く終わらせたいだけのように見えた。
◇
アクアリアのバッテリーは、ゼノのその態度を見て、完全に警戒を緩めた。
「(なんだ、こいつ。この土壇場で、戦意喪失か?)」
「(ラッキー。さっさとど真ん中に速いのを投げ込んで、三振させて終わらせようぜ!)」
相手投手が、油断しきって、大きく振りかぶる。
そして、何の駆け引きもなく、真ん中高めの、絶好のストレートを、投げ込んできた。
その、瞬間だった。
ゼノの全身から立ち上る雰囲気が、一変した。
気だるげな遊び人のそれから、獲物を前にした、冷徹な魔法剣士のそれへと。
彼の瞳が、ゾッとするほどに、鋭く光る。
バントの構えから、信じられないほど滑らかで、速い動きで、ヒッティングのフォームへと移行する。
それは、まるで、防御の構えから、必殺の突き(スラスト)へと転じる、達人の剣技そのものだった。
「(――遅い)」
ゼノのバットが、閃光のように、鋭く、そして正確に、ボールの芯を捉えた。
キィン!
甲高い金属音と共に、白球は、完全に前進守備を敷いていた、相手内野陣の頭上を、嘲笑うかのように、ふわりと越えていく。
ライナー性の打球が、がら空きのセンター前に、ポトリと落ちた。
その間に、二塁ランナーのカイが、神速の足で三塁を蹴り、サヨナラのホームへと、猫のように軽やかに、そして優雅に、滑り込んだ。
「セーフ! ゲームセット!」
審判のコールが、スタジアムに響き渡る。
アークスの、サヨナラ勝ちが決まった。
「うおおおおおおっ!」
「やった! 決勝だ!」
「ゼノ! すげえじゃねえか、お前!」
選手たちが、ヒーローであるはずのゼノの元へと、歓喜の声を上げながら、駆け寄ろうとする。
だが。
ゼノは、その歓喜の輪に、加わろうとしなかった。
彼は、バッターボックスで、自分の右手を見つめ、静かに、佇んでいる。
その手は、相手の剛速球を、無理な体勢で打ち返した衝撃で、微かに震え、白魚のような指が、赤く腫れ上がっていた。
彼は、普段のトリッキーな当て逃げではない。
初めて、本気で、このチームの勝利のために、自分の体を張って、バットを振り抜いたのだ。
その代償として、手に残った、痺れるような、熱い痛み。
それが、彼にとって、ひどく新鮮で、そしてどこか、心地よかった。
彼は、赤く腫れた手を見つめ、誰にも聞こえないほどの、小さな声で、呟いた。
「……柄にもないことを、させてくれる」
その横顔には、これまでの皮肉な笑みではない。
満足感と、ほんの少しの戸惑いが入り混じった、俺たちが今まで見たことのない、真剣な色が、浮かんでいた。
俺だけが、その小さな変化に気づき、マスクの下で、静かに、微笑んでいた。